対話篇/演出ノート#3

演劇が終わってしまうこと、あるいは、終わらないかもしれない可能性を想像する話について前回は考えた。

わたしは演劇を見ているときに、それ自体が、何らかの演劇であると、感じられたときに、嘘が嘘であることが露呈する瞬間に、とても心を動かされることが多いと思う。

例えば、スピーカーから音が鳴るのが私は好きなのだけど、それはどこからともなく鳴っているのではなく、スピーカーという外部の物が現れて、わたしを現実に引き戻しつつ、同時に、演劇に対して音楽によって変化を起こすとき、見ているものが、目の前の物は、嘘であるけれど、同時に、目の前で起こっている真実であることがわかって、とてもエキサイトする感じがする。嘘であることの意味がなくなって、強みになる感じがするからだ。

喋っている人を見ていても、自然にしゃべっているときよりも、この人が、この人として喋っているなあ、とわかる瞬間、演技をしているとわかるような瞬間が訪れると、目の前で起こっていることが、嘘ではなく、本当に怒っていること、目の前に本物の人がいる、とわかったような感じがして、とてもおもしろいと思う。

数年前に、KAATで、チェルフィッチュの「地面と床」を見たときに、労働に関する話を登場人物の男が喋った後に、スピーカーから音楽がかかって、男が音楽に合わせているとも、合わせていないともつかない、奇妙な動きをする場面があったのだけど、その時、どんどんスピーカーから鳴る音楽が高まって自己主張をするようになっていく中で、男は黙々と動きを続けていて、わたしはその動きが何を表しているかはわからなかったのだけど、(この役者の人も、役者が仕事=労働だから、こうやって舞台に上がって音が鳴っている中で動いているんだなあ)と素直に感じて、それが登場人物の語った労働についての話(確か、男は働くのが役割なのに働けなくてつらい、みたいな内容だった気がするが、ずいぶん前なので、間違って覚えているかもしれない)と繋がって、この人は、さっき働くのが役割と言っていたけど、今まさに、こうやって黙って動くことで、舞台の上で登場人物として労働しているんだなあ、と思って感動した。音自体と、動き自体と、役者自体が、それぞれ分離しながら、ひとつの舞台の上に投げ出されて、それぞれが黙々と仕事をしていることそのものに感動した。この舞台のこの瞬間はよく思い出しているんだけど、今日も、そういうことを、稽古していて、帰りに、思い出した。

でも、わたしはよく、自分や誰かが現実に生きているのか、喋っている人が本当に目の前にいるのか、とか、そういうこと自体が不安になるので、演劇という場所では、喋っているだけで、動いているだけで、そこにあるものは、そこでは(少なくとも、そうやっていること、行為していること自体は)本当ということになるので、それがとてもいいと思う(もちろん、それが面白いかどうかとか、誰かに著しく危害を加えるようなものでないかどうか、という判断はあるけれど、それは見ているものが嘘であろうと、本当であろうと、行わなければならないことだ)。もちろん、その逆をゆくこともできる。本当であるかどうかを疑わせる力も、同時に演劇にはあたえられている。



お布団の番外公演「対話篇」
原作:プラトン「クリトン」
脚本:綾門優季(青年団リンク キュイ)
演出:得地弘基(お布団/東京デスロック)
3/24(金)~28(火)@新宿眼科画廊地下スペース
予約・詳細→お布団公式サイト

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

8
主に演出という役職で演劇をつくっています。宣伝美術なども。/お布団(@engeki_offton)主宰/東京デスロック演出部/連絡はhind24ac@gmail.com/お布団 http://offton.wixsite.com/offton
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。