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囚人ゲーム ~長編小説~

●第一章

 赤間秀明はひとけのない山道を歩いていた。
 幅が二メートルくらいしかない細い道だった。路面には砂利が敷き詰められていて、歩くたびに石がこすれ合う音がする。砂利は思いのほか深く、ときおり沈んでしまいそうな錯覚を起こす。
 空はぼんやりと薄暗く、これから向かおうとしている方向には濃い雲がたれこめている。なんとなく赤間の未来を暗示しているようで、いやな感じだった。
 赤間は小さな男の子を背負っていた。自分の子供だ。子供は赤間の首に手を回し、しがみついていた。眠っているのだろうか、赤間の歩くリズムに合わせるかのように、規則正しく安らかな寝息を立てている。
 道の脇には覆い被さるように、いちじくの木が生い茂っている。木の幹は湾曲していて、何本かに分かれた枝から、大きな掌状の葉がぶら下がっていた。
 ずっと昔から赤間はいちじくの木が嫌いだった。赤間の生家の近くに生えていて、子供のころ悪いことをしたら、よく木に縛りつけられた。樹の形が人間の姿に似ているいちじくの木には魔物が棲んでいて、隙を見て襲い掛かるのではないかと思っていた。木に縛りつけられていたとき、いつ、いちじくの枝が赤間に襲い掛かり、飲み込まれてしまうのかと思うと、不安と恐怖で気が狂いそうになった。静かで真っ暗な夜の中にひとりきりで放り出され、とても寂しくて、とても心細くて、両親を恨んだことを覚えている。
 赤間の脇に生い茂っているいちじくの木も、子供のころと同じく気味が悪かった。両手を挙げて襲い掛かろうとしているように見える木や、手を水平に伸ばしておどけたように見える木がある。昔、人間が死ぬといちじくに生まれ変わるという怪談を聞いたことがあるが、その話が本当ではないかと思えるほど、いちじくの木はさまざまな人の形に見えた。
 いちじくの木の幹には、たくさんのカミキリムシが蠢動している。カミキリムシたちは、わさわさ、わさわさ、と木の表面を這いずり回っている。カミキリムシの背中にはさまざまな大きさの斑点があり、長い触覚はつんと前を向いている。ときおり頭部を動かして、あたりを見回している姿が、赤間を見張っているようにも見え、うなじの毛が逆立つような嫌悪感を覚えた。
 ある夜、赤間が縛りつけられていたとき、カミキリムシが赤間の服の中に入り込んだことがある。カミキリムシは赤間のシャツの中で、固い手足を動かしてもがき、体の柔らかな部分をちくちくと噛んだ。身動きの取れない赤間は、痛みに悶え苦しみながら、ひと晩を明かした。赤間はカミキリムシも大嫌いだった。赤間はできるだけ脇の木を見ないようにして、歩を速めた。
 いつしか子供の寝息が聞こえなくなった。ふと気になり、立ち止まると、おそるおそる振り返って、背負っている子供の顔を見た。
 顔の輪郭は逆三角形で、あごは細く尖り、頬骨がやたらと飛び出ていて、顔にはたくさんの皺があった。髪の毛はまったくなく、頭頂部には太い血管が浮き出ている。
 しかも子供の顔には瞳がない。目があるべきところは窪んでいて、黒い影になっている。その影の奥から、子供がこちらを監視しているように見えた。
 赤間は、奇妙な顔をしたこの子供の顔にどこか見覚えがあった。自分の子供ではなく、遠い過去に見た顔のような、おぼろげな記憶が残っている。わずかな記憶の先を手繰り、この顔を思い出そうとはするが、記憶の先にもやがかかったようになっていて、どうしても思い出せない。
 子供は起きていて、赤間をじっと見つめている。微笑んではいるが、子供の唇の端は嘲るようにゆがんでいる。赤間にはその笑いが悪意に満ちた表情のように感じられた。
 そもそもこの子にはなぜ目がないのだろうか。赤間は肩越しに子供に問いかけた。
「おまえ、目を怪我でもしたのか?」
 子供は質問には答えずに、赤間を馬鹿にしたように顔をいびつにゆがめ、へらへらと笑っているだけだった。
 その顔を眺めているうちに、赤間はこの子を背負っている理由を思い出した。子供は今年七歳になる。生まれて以来、一言も喋っていない。人のことを嘲るように笑うか、うるさい声で泣き喚くかのどちらかだった。
 それどころか、この子は自分の足で立ち上がることもできなかった。できることといえば、生の豚肉を食べることだけだった。ほかのものはいっさい食べず、しかも量が半端ではない。毎日一頭の豚をぺろりと平らげる。量が足りないときには、耳障りな声でいつまでも泣き喚いた。
 なにかの病気なのかと病院にも連れていったが、原因はいっさい判らなかった。このままではこの子の行く末が案じられるので、藁にもすがるような思いで、有名な霊能者のところへ子供を連れて行った。
 その霊能者は徳が高く、除霊はもちろんのこと不思議な病でさえ治すことができるという噂だった。もう八十を越したかと思えるような老婆だったが、部屋に入ったとたんに、彼女が持っている迫力のようなものに圧倒された。目が吊りあがっているのに加えて、鉤鼻のせいなのか、どことなく魔女を連想させる。
 彼女は子供を一目見るなり、深い皺が刻まれた頬をこわばらせ、「ただちに沼に投げ捨てなさい」と強く言い放った。それだけ言うと、目を瞑り、あとは赤間がなにを聞いても一言も喋らなかった。
 徳の高い霊能者の言葉に、赤間はこの子は魔物なのではないか、と考えた。霊能者はそのことを見抜き、赤間に子供を捨てるよう勧めたのに違いないと思った。
 そこまで思いを巡らせていたとき、赤間は思い出した。
 赤間は霊能者の言葉どおり、この子を沼に投げ捨てるために、沼に赴く途中だったのだ。我が子とはいえ、赤間はこの子が大嫌いだった。一言も喋れず、人を見下したように笑うだけ。血の繋がりがあるとはいえ、こんな子では愛情が湧かないのも仕方がない。
 そう考える一方で、心の奥底から罪悪感が鎌首をもたげてくる。親の愛情を受けず、捨てられるだけの我が子。一度くらいは親の愛情を溢れるくらい浴びたかっただろう。そう考えると、赤間の心がかすかに痛む。だが、かといって我が子を捨てる決心を覆す気にはなれなかった。
 赤間の気持ちを察したかのように、背負った我が子がけたたましい大声で泣き始めた。こころなしか子供が重くなったような気がする。
 赤間は歩を速めた。いま歩いている道をずっと真っ直ぐに歩いていくと、行き止まりに沼があるのはわかっていた。
 子供の泣き声はやまない。急げ。赤間は名状しがたい焦燥感に苛まれていた。
 道はだんだん狭くなってくる。子供は背中にかじりつくようにして狂ったように泣き喚いている。赤間の勘違いなどではなく、たしかに子供は徐々に重くなっていた。
 次第に赤間は背中の子が怖くなってきた。やはりこの子はなにかの物の怪に取り憑かれているのだ。そうでなければ急に重くなるわけなどない。こんな化け物は早く沼に捨てなければならない。
 道の両脇に生えているいちじくの木々は、赤間を通せんぼするように、道の中央に向かって枝を伸ばしている。赤間は枝を振り払うようにかき分けて、歩き進んだ。枝をかき分けるとき、カミキリムシがぽたぽたと落ちてきた。子供のころの痛みと恐怖を思い出し、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
 いつのまにかカミキリムシがキイキイと音を鳴らし始めていた。いたるところのカミキリムシが耳障りな音を鳴らし、やがて耳を覆うような音があたりに響き渡った。行くな、行くな、と警告されているようで、底知れぬ不安が湧き起こってくる。だんだんあたりも暗くなっていって、赤間の焦燥感をいっそう煽った。
 足元からもキイキイと音が聞こえる。ふと下を見ると、砂利の上にたくさんのカミキリムシが落ちていた。後ろを向くと、赤間が砂利と思っていたものはカミキリムシで、赤間の通ったあとには、踏み潰されて汁を出して死んでいるカミキリムシが無数に転がっていた。いつしか道はすべてカミキリムシで覆い尽くされ、地面がカミキリムシの蠢動でわらわらと波打つように動いている。
 背中の子供が泣き喚くたびに重くなっていく。赤間を押し潰そうとするかのような重さに、何度も倒れそうになった。必死で前に進もうとしたが、赤間には支えきれなくなっていた。もう駄目だ、と崩れ落ちそうになったところで、道が行き止まりになった。
 目の前には大きな沼があった。沼の水は濁っていて、底が見えない。沼の水はまるで粘り気を持った飴のように見えた。この沼に落ちたら、二度と上がってこられないだろう。
 そう思ったとき、沼から無数の手が出てきた。手をひらひらと動かして、こちらに手招きをした。はっとして、目を凝らして見てみたが水面にはなにも見えない。
 背中の子供は相変わらず泣き叫びながら、凄まじい怪力でしがみついている。
 赤間はしがみつく我が子を背中から引きはがした。子供は手足をじたばたと動かし抵抗したが脇の下をしっかりと掴んだ。子供が耳をつんざくような声で泣き喚く。赤間は思いを振り切るように、思い切り我が子を沼に投げ捨てた。
 重く鈍い音がして、我が子は沼に落ちた。子供はしばらく水面を浮いたり沈んだりしながら、苦しそうにもがく。シャーシャーと人間とは思えない声で叫んだ。
 やがて、あがいていた我が子は、凶悪な顔をした骸骨のような化け物に姿を変えた。化け物は物凄い形相で赤間を睨み、憎々しげに叫んだ。
「畜生、あともう少しでおまえを殺すことができたのに」
 その言葉を聞いて、自分がなぜ我が子に殺されそうになったかを思い出した。

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