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悪性さらにやめがたし

地球上のいたるところから、老若男女の「ざまあみろ!」という心の中の快哉が聴こえてきそうです。
その意味では、私たちの中にはたしかに、他人の不幸、他人の陥った苦難を喜ぶ素質があるのです。

           姜尚中

「ざまあみろ!」とどれだけ思って生きてきただろう。

「それみたことか」とどれだけほくそ笑んできただろう。

最近では、そういうことを思うと、恥ずかしく感じるように成った。
じゃ、恥ずかしいのならやめられるか、というと、気がつくと、
「それみたことか。ざまあみろ!」と心が叫んでしまう。

どうにもならない。

自分の親しい人や応援している人が、苦汁を飲まされると、なんて世の中は不条理なんだ、なんて思う。

それが自分であったときにゃ〜、もう大変。

その後に、わたしやわたしの友人に苦汁を飲ませた人が、わたしと全く関係ないところであろうが痛い目にあえば、もう満面の笑みで「ざまあみろ!」と言っている。
転んだってだけでも、嬉しくてしようがない。

なんて小さい、なんて情けない人間なんだ。

でも、この「ざまあみろ!」も、自分の意識をコントロールして出てくるもの、いや出せるものでもない。

出ちゃうんだ。

出ないときもある。

米国大統領選では出なかった。

ツイッターでグレタさんに、ブーメランツイートをトランプさんが食らった際は出たけど😅(「chill,chill Donald!」事件のことです)

どちらにしろ、わたしの深層には、人が痛い目にあったことを喜ぶ、そんな根性が在ることは確かだ。

それが妬みなのか、嫉みからなのか、恨みからなのかはわからない。

それすらもわからない。

悪意は、いつもわたしの知らぬところで、わたしの中で増殖しているのだろう。

だからこそ、悪意は他人事ではないことに気をつける必要がある。

だいたい、悪意を悪意と思って貯蓄することも放出することもない。

何が恐ろしいかと言えば、わたしはその悪意を「善」だと思いこんでいることだ。
「善」「正義」ほど危険な「悪意」はない。

「悪」があってもしようがない、という話ではなく、「悪」は皆が「善」という形で持っているということを認識しなければならないという提言だ、姜尚中さんからの。

こういう言葉をたまに思い出して、自分の中の「善」に「?」マークを付けていかねばと思った。

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