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どうでもいい

男らしくとかさ
女らしくとかさ
ぶっちゃけどうでもいい
おしつけるもんじゃない
自分は自分らしくいく
それも
どうでもいい
ようは明るく楽しくいればいい
みんなちがっていい

     みやぞん(唄・詞・曲)


先日、「男らしさ女らしさってなに?」というテーマで放送された番組の最後に、みやぞんさんが唄った歌だ(即興の感じで)。

感心したのは、「自分は自分らしくいく それも どうでもいい」というフレーズだ。

「自分は自分らしく」を強要することは、自分ってなんだろうと悩んでいる人にとってはとてつもなくハードなことだ。
みんなといっしょでありたい、社会常識と言われているところで過ごしているのがホッとして一番楽だ、という人にとっては「自分は自分らしく」「個性がなければダメ」は、「男らしくしろ」と言われて悩んでいる人や、「女らしくしろ」と言われて悩んでいる人と同じような苦痛でしか無い。

だから、それだってどうでもいい。

すばらしい。

嵌めて考えることはない。

隣と違ってもいいし、同じでもいい。

なんでもかんでも違う必要もなければ、同じ必要もない。

同じカテゴリにいる人間同士でも、そこには考え方や、表現の仕方や、違いは腐るほど在る。
それを認められないのであれば、そのカテゴリの中での争いとなるし、差別となるし、弱者を作ることにもなる。

「うちらのカテゴリにいる以上は、こういう心持ちで、こういう生活をして、こういう運動を展開しろ!」

これでは「日本人である以上は〜〜〜」と最近吠えているエセ右翼と同じだ。

「君が代」を無理やり唄わせる、起立させる、そんな政治家と変わらない。

「らしく」という言葉は、本当に厄介だ。

坊さんは坊さんらしく。

う〜ん。。。たぶん、普通に街場でわたしに会って、「わたしは坊さんです」と言ったとして、その人は「らしくねぇなぁ〜。髪あるし、破れたジーパンに汚ねぇシャツだし、いい歳してチャラそうだし」となるんじゃないかな。

じゃ、坊さんらしい坊さんてなに?

剃髪していて、衣を着ていて、お経を称えながら歩いている?

そんなの、正直、誰でもできるよ、慣れれば。
新宿の地下には、昔は深編笠をかぶったエセ坊主が托鉢の形で立っていた。
目深にかぶった笠の内側に経文を書いた紙が貼り付けてあったりするらしい。

あれのほうが、おれよかは坊さんらしいってことになるのだろう。

男らしい。女らしい。

メチャクチャそういう事を気にしてきた世代だ。
今の若い人たちのユニセックスという感覚に、正直言って付いてはいけない。
会話の中で違和感をおぼえることも儘ある。
ただ、すごくいいことだな、とも思う。
自分は無理でも、理解できないクソ親父でも、その時は、「なんかそりゃ違うんじゃねぇのかな」なんて思えても、あとから頼もしいというか、うまくいえないのだけれども、その自由さへの憧れのようなものを覚え、応援したくもなる。

じゃ、ユニセックスができなくて、男らしく・女らしくを大事に生きているのをみても、それはそれでいいと思う。

なんか、どうでもいいじゃん、どっちでもいいじゃん。

そんな感じはずっとあった。

で、みやぞんは、見事に短くそれを唄ってくれたってわけだ。

らしくあろうというのは、ある意味一番楽な方向でもあるんだよね。
それだけ考えてやっていればいいんだから。
だけどこれはこれで、窮屈で縛られていて苦しい。

らしさを打ち破るのは、本当に勇気がいることだよ。
それを他者の前で見せるのは、凄まじい恐怖だと思う。
その瞬間にもしかしたら全てを失うのではないか、と。

どちらにしろ、お互いの監視の中での苦しみだよね。

だからもっと互いに寛容であることが大事なんだと思う。

そして何よりも、一番難しいのは、実は、自分自身に寛容になること。

「自分は自分らしくいく」はもっとも自分を縛り付け、決めつけ、嵌め込む、一歩間違えば寛容さが微塵もない危険な言葉にも成りうる。

だから、「それも どうでもいい」と彼は言いたかったんじゃないかな、そんなことを勝手に感じている。

ま、こんな屁理屈を並び立てるのも野暮だったな。

この詞を読めば、きっとみんな色々と感じられるだろうし。

今日の言葉も、この並べ立てた屁にもならない屁理屈も、

どうでもいい。

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