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ご自愛は「抜苦与楽」である?#006「お坊さんとのご自愛談義」 〜タイニーのご自愛タイムズ〜

タイニーのご自愛タイムズはご自愛について語り合う場です。ともこ&あこや、様々なゲストと共にそれぞれの日常を紐解き、「ご自愛」について探求していきます。

今回のテーマは、「お坊さんとのご自愛談義」

本日のゲストは齋藤宣裕(さいとう せんゆう)さん。、秋田県秋田市にある法華寺で副住職を務める宣裕さんは、子ども食堂や地域の方々の学習支援など色々な活動や、最近はマインドフルネスや写経会をオンラインにて開催されています。ともこ&宣裕さんの二人で「ご自愛」について考えていきます。

愛は迷いの根源になる

ともこ:宣裕さんとの出会いは、先日のゲスト企画で対談させてもらったサステイナビリティ学の工藤尚悟さんがきっかけですね。「ご自愛について考えるなら宣裕さんに会ったほうがいい」と言われたので、すぐにご連絡させていただきました。今日はよろしくお願いします。

さっそくですが、仏教の世界では「愛」や「ご自愛」はどう捉えられているのでしょうか?

せんゆう:仏教の世界では「愛」というのは基本的には「迷いの根源」と捉えられいて、自分の悟りを邪魔するマイナスのイメージのある言葉なんです。愛情がゆえに苦しんでしまうとお釈迦様は愛を捉えているんですよ。

ちなみに「北斗の拳」ってご存知ですか?

ともこ:ちゃんと読んだことはないですが、イメージはあります。

せんゆう:「聖帝サウザー様」というキャラクターがおられまして。このサウザーさんはですね、もともとは孤児だったんですが、拳法の才能を買われお師匠さんに拾われるんですね。お師匠さんはすごく厳しい方なんですけど、愛情をもって育てるんです。サウザーさんが成長して免許皆伝となった時に、「卒業試験だよ」と言ってサウザーさんに目隠しをするんです。そして「これから襲ってくる悪いやつがいるから、お前はそれを目隠ししたまま倒すんだよ」って言うんですけど、実際にサウザーさんは目隠しをしたままその敵をやっつけてしまうんです。「やったよ、お師匠さん!」と言って目隠しを取ると、その襲ってきた相手がお師匠さんなんです。

ともこ:ちょっと、話の展開が途中から読めてしまって、鳥肌が立ちました、、、

せんゆう:お師匠さんは「これでいいんだよ」って言うんですけど、まだ子どもだったサウザーさんは耐えられないんですね。「こんなに悲しいなら、こんなに苦しいなら、俺は愛などいらぬ」と、悪い人になってしまうんです。

端的に心に響くエピソードで紹介しましたけど、「愛」は大切で安らかな一方で、悪い感情を呼び起こすきっかけになってしまうんですよね。「愛」が原因で例えば叶わぬ恋があったり、あるいは自分がこんなに相手を想っているのに、相手は自分に何もしてくれないとなったり。だから「迷いの根源」とも言われるんです。

ともこ:たしかにパワフルであるがゆえの危うさはあるかも。私も「ご自愛」という言葉を使いながら、穏やかで大切に慈しむイメージを持っていますが、、現実世界では「愛」はあまりに強くて、時に振り回される感覚もあったりします。

「自分」や「あなた」という存在はない

せんゆう:さらにもう一段踏み込むと、仏教の世界では「自分」という存在も難しいんですよね。お釈迦様は「自分」は仮の存在であり、「自分」がいると思うから苦しくなると考えます。お釈迦様がたどりついた結論が「自分」や「あなた」という存在はないというもの。色んな縁や現象が重なり合って、あたかも「自分」が存在しているかのように見えるけれども、「自分」っていう存在はないと考えています。

ともこ:「自分」という存在があるがゆえの悩み。「自分」という存在がないというのはどういった感覚なんですかね。

せんゆうさん:私もまだ悟っていないので実感は薄いかもしれませが。例えば嫌な人がいて、「自分」がよく思わない行為をしてきた時に、行為をされている「自分」は実は仮の存在であって、相手も存在しているように見えるけれど、実は仮の存在だと考えます。そうすると、出来事はあくまで出来事としてあるだけで、存在はしていないんだと捉えらえることができます。だから「嫌なことをされる」という苦しみがなくなるんですよね。

ともこ:「自分」や「他者」の境界線があいまいである感覚は、私もかなり持っているんです。「やさしさが連鎖するような経済圏を作ろう」というタイニーの理念においても、「自分」や「他人」が影響し合って成り立っているからその二つは明確な線引きができないと思っています。

tiny peace kitchenはGaiax(ガイアックス)という会社の事業部としてお店をやってるんですけど、ガイアックスの社名はガイア理論からきているんです。いろんなものの境界線があいまいになって、つながりあって影響し合う。あらゆることが地球という生命体の細胞の一つであるという考え方ですよね。

「ご自愛」という言葉においては、自分の心とか体を大切にできないと負の連鎖が始まると考えているので、まずは「ご自愛」からはじめることを大事にしているんです。このあたりは仏教的な世界観でいうと、どう表現できるんでしょうか。

せんゆう:一般的にキリスト教の「愛」に近いのは「慈悲」という言葉ですね。慈悲の「慈」は「いつくしみ」で、苦しみを取り除く「抜苦」の意味合いがあります。慈悲の「悲」は「悲しい」ではなく、他者に楽しみを与える「与楽」という意味なんです。「慈悲」を言い換えると「抜苦与楽」っていう言葉になるんですよね。特定の対象に向けられる「愛」とは少し違っていて、「慈悲」っていうのは際限とか区別がないんです。例えば「私の大切な人だから」「家族だから」という理由で大事にするのでなく、道ですれ違った人に対しても自分の親や子どものように接するし、見ず知らずの人にも最大級の「慈悲」の心で接する。おそらく「慈悲」という言葉が「愛」に近んじゃないかなと思っています。

ともこ:なるほどなぁ。

せんゆう:私たち仏教者の間で尊敬されているプラユキナラテボーさんというタイ仏教のお坊さんがおられます。プラユキさんは「自他の抜苦与楽」という言葉をいつもおっしゃっているんです。自分に対して苦しみを抜いて楽しみを与える。そして他者に対しても同じである。自分が悟りに向う修行の中で、他の方にも同じように慈悲の心で接する意味合いがあります。「ご自愛」にも通じるのかなという印象を持っているのですが、いかがですか?

ともこ:「ご自愛」を探求することって、出家はせずとも、人生という修行を続けていくような感覚に近いかもしれません。ビジネスをどうはぐくむか、ビジネスを通じて人とどう関わるのか、どんな心持ちで事業をやっていくのか、といったことを考えています。その生き様を他者と共有しながら、私たちの在り方を考えていく。修行に近い感覚を持ちながら事業をやっていきたいんだと思っています。

せんゆう:修行という言葉を使うと特別に感じるかもしれませんが、結局は人の生き方がポイントなわけです。例えば滝に打たれたり苦行をして一ヶ月断食するような特別なことではなくて、日々の生活や人生そのものが修行の過程であり悟りの内容であって、結果として行き着くのが人生かもしれないと日々思ってます。

ともこ:宗教は神聖で私たち俗的なものとは交わりにくいイメージを持ってる人もいるのかもしれませんね。宣裕さんと話していると、宗教や仏教の叡智によってもっと救われるんじゃないかと思います。

せんゆう:そうですね。宗教や仏教となると、どうしても雲の上の世界のお話というイメージを持ってしまうんですよね。でも実は切り離されてはいなくて、現実世界そのものが宗教や仏教だと思っています。仏教も専門に勉強して修行する必要も時としてありますが、それとは別に仏教の叡智や智慧を、日常生活にもっと活かしていく必要が出てくると思います。

ともこ:宣裕さんはどんな思いで地域活動をされているんですか?

せんゆう:そもそものスタート地点が「うちのお寺はこれからどうなっちゃうんだろう」という不安な気持ちでした。秋田県は人口減少がかなりのスピードで進んでいて、これから先の明るい話題があまりないような状況なんです。うちのお寺もご法事やお葬式といった決まった行事以外は誰もいないような状況でして。お寺なのでそれなりに広い空間があるのに「もったいないなぁ」というのを感じていたんです。

そんな時に、松本紹圭さんというMBAの資格を持った異色のお坊さんの経営セミナーを仲間たちと受講しに行ったんです。最初は自分のお寺をどうにかしたくて受講しましたが、実際そこに集まるのは人なわけで、人が元気じゃないとどうにもならない、というところに行き着いたんですね。まず秋田を元気にしたほうがいいんじゃないか、秋田の人のために何かできないかな、という気持ちにだんだん変わっていったんです。

子どもたちの学習支援や、子ども食堂みたいなことをさせていただきました。他にも現代の人が抱えている不安を安らかにするために写経やかマインドフルネスの集まりもしています。

ともこ:利他か利己かわからないっていう感覚ですよね。

せんゆう:それこそ連鎖という形です。秋田が元気になることで、自分のお寺も元気になる。自分のお寺も元気になることで、また秋田の人たちも元気になる。やさしさが連鎖するというところはすごく私も共感しています。


やさしさの連鎖の起こしかた

ともこ:私たちが日常レベルでどんなことを大切にしたり心がけたりしたら、自分も他者も大事にして「やさしさの連鎖」を起こしていけると思いますか?

せんゆう:3つ私なりに考えています。

1つ目が「多様性と寛容」です。仏教の特徴の一つが、多様性と寛容だと教えてもらったことがあります。他の宗教では宗教戦争が起こったりするんですが、仏教はあまりそういう事例がないんです。ある地域に移ってくると、その地域の土着の信仰とミックスされて変化をしていく。だから日本とインドの仏教とは全然違っていて、それぞれが認め合いながら存在しているんです。仏教のやさしさ、多様性を認める寛容さが今の現代に必要なことだなと思うんです。

2つ目が「自分を見つめ直す」ということ。私が力を入れているマインドフルネスの活動につながります。「今ここの自分を観察して気づいていく」というのが瞑想の手法なんですが、ビジネスでいうと「メタ認知」になると思います。

今の人たちって、他人のことで一生懸命だったり、自己中心的な人って実はそんなにいないんです。皆さん自分のことを後回しにして、他の人のために尽くしているために苦しんだり悩んでいる人が多い気がしていているんです。そんな時に、自分が今何を考えてどんな状況なのかと、足を止めて見つめ直す時間が大切だと思っています。

3つ目が「自分の修行が他の人のためになって、他の人がまた自分のためになる」という気持ちです。うちは日蓮上人という方が開いた日蓮宗という宗派なんですが、日蓮上人が「人に物を施せばわが身の助けとなる。例えば人のために火を灯せば、わが前明らかなるがごとし」というお手紙を残されています。人のためと思って明かりを灯すと自分の前も明るくなる、ということをおっしゃっているんです。人のためと思ってしたことが自分のためになり、自分のためを思ってやったことが他の人の助けになる。自分と他人の境界線を考え直して皆がやさしい気持ちになっていけるように、私もやさしさの連鎖について考えていきたいと思います。

ともこ:すごく勇気をもらいました。行き着くゴールが見えているわけではなくて、揺れることも多々あるんですが、感じているものを信じていきたいです。引き続き、自分と他者の境界線があいまいな感じやバランスの取り方など、いろんな方々とお話しながら探究していきたいなと思っています。

宣裕さん、今日はありがとうございました!

仏教における「自分」と「他者」の曖昧さが、ご自愛という言葉にも通ずる部分があるみたいですね。その曖昧さに目を向けてみることが「やさしさの連鎖」の第一歩かもしれません。

▼こちらの内容は、タイニーのご自愛ラジオに収録されています。
通勤時間や、料理をしながらなど、スキマ時間にぜひ聴いてみてくださいね。


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