「私は冒険がありそうだと見ると、つねに押さえがたい誘惑を感じる」

■アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』

私は冒険がありそうだと見ると、つねに押さえがたい誘惑を感じる。(P.73)

しばらくホームズをお休みしようと思っていたのに、つい読んでしまった。四つある長編のうち三番目がこの『バスカヴィル家の犬』。


このストーリーでは語り手ワトスンがメインで動く。

ちょっと辛辣な言葉になるのだけど、『ポオ小説全集4』で江戸川乱歩がこんな風に語っていた。

天才探偵デュパンはこの物狂わしき夢の国から生まれて来た。それ故に、共にエクセントリックでありながら、ホームズとはまったくその本質を異にする。デュパンは本物、生まれたもの。ホームズは造りもの、つけ焼刃。ポオの作品において、記述者の「私」はまったく影が薄く、デュパンの方が生きているのは、彼こそポオの分身だからである。これに反して、ホームズ物語では、ホームズよりもワトスンの方が生きている。ドイルの分身はホームズではなくワトスンだからだ。(P.429)

ここまで言い切れる根拠があるのかは知らないが、妙に納得した。

ホームズが、漫画のキャラクターよろしくカッコよくていかにも魅力的な男性なのに対し、ワトスンは紳士的でいいヤツ(笑)なのに惚れるって感じにはならない。もしコナン・ドイルの目線がワトスンに重なっていて、その目でホームズを眺めているのだとしたら、ちょっと納得がいく。

そう言われてみればデュパンの語り口調はたしかにポーっぽいというか、逆にあの中に出てくる相棒役(「私」)はちっともポーらしくない。

要するに、ホームズはやはりカッコよかった、ということで。

(個人的にはディーン・フジオカのホームズもガンちゃんのワトスンも全然納得がいってない!)

コナン・ドイルの良いのは、ホームズがちょいちょい失敗するところだと思う。ドタバタコメディ感、とでも言おうか。完璧じゃないからこそ親近感が湧く。


あ、ホームズが事件が終わった後に事実関係をすっかり忘れてしまっていて(実際は全然覚えてたんだけど)、こんなことを言っていた。

「強い精神集中作用を得る要領は、なんでも過ぎ去ったことは忘れてしまうことだからね」(P.250)

なるほど!私も記憶力が異常に悪いので「強い精神集中作用を得ている」ということにしていいかなぁ。汗


個人的には『緋色の研究』や『四つの署名』のほうが謎めいていて好きだったかな。

あと、『バスカヴィル家の犬』では章を分けて回想シーンを描くのではなく、異国の地が物語と渾然一体となっている。そこも『緋色』『署名』のように章をガッツリ分けて、異国情緒溢れる物語を書くパターンのほうが好き。


次は『シャーロック・ホームズの帰還』かぁ……

いよいよ終わりが近づいてきてなんだか惜しいけど、読み終わったら原書か他の翻訳で読もうかな〜という沼感。笑

「あらゆるあり得べき場合を想像して、その中からもっとも確実なものを選びだすのです。想像力を科学的に利用するのです。もっとも、想像とはいっても、そこには何らかの有力な根拠があって、その根拠から出発した想像なのです」(P.51)

次に控えているのは、アガサ・クリスティー『五匹の子豚』『ABC殺人事件』、エラリー・クイーン『ローマ帽子の謎』(一度ドルリー・レーンと距離を置くことにした)。積読を崩しかけたらまた積むという、テトリスみたいなことをやってます……。


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