「殺人は結果なのだ。物語はそのはるか以前から始まっている」

■アガサ・クリスティー『ゼロ時間へ』

アガサ・クリスティの魅力の一つである「物語性」が素晴らしく発揮されていました。とても面白かった。


殺人事件が起きる瞬間を「ゼロ時間」とし、そこに向かって収斂していくストーリーを描く。普通の推理小説ならまず事件が起きて、聞き取り調査をして証拠品を集めて、推理して……となるが、それはおかしい!という著者の信念が感じられる。

その考えは、これまでクリスティ作品を読む中でもたびたび感じてきたものだった。例えば『ナイルに死す』では事件が起こるまでの描写がとても長くて、複数人の関係性を読者に教え込む時間が続く(でも決して退屈ではないし、そこが面白い)。

言われてみれば殺人事件というのはとても大きな心の動きが必要な出来事だ。衝動的なものにしろ計画的なものにしろ、「人を殺す」という最も避けるべき罪をあえて選択してしまうのだから、生半可な精神状態ではない。それはつまり必ず動機があるということで、動機が生まれるに至る経緯があるということ。

だから、事件の後からしか語られない物語は不完全だ──というのはもっともだなぁと思った。

(どうしてもクリスティとの比較ではこの人を挙げたくなるのだけど)エラリー・クイーンの事件の場合は、“ゼロ以前”がかなり適当に感じられる。きっと彼らにとってミステリーはゲームであり知性の戦いなのだと思う。一方でクリスティにとってのミステリーはあくまでストーリーなんだな、ということを改めて実感した一冊だった。

たぶん……あまり詳しくない私が言うのもなんですが、ミステリーを書こうと思う人はトリックや推理、ロジカルな思考、整ったプロットという部分に強い興味を抱く人が多くて、殺人事件が起きるまでの物語は書こうにもうまく書けないんじゃないかなぁ。とちょっと思った。

『ゼロ時間へ』はミステリーとしてのトリックや犯人探しの面白さが突出しているわけではないけれど、文句なくよくできた物語です。


やはり疑問なのは、この人の描写力の秘訣はなんだろう?ということ。

最初はミステリー作家同士の比較しかしていなかったけど、最近は合間に純文学も読んでいるのでより引いた視点で鑑賞できる。するとやっぱりクリスティの描写は過不足がなく、人物像と情景を苦なくイメージすることができる……ということがわかる。

今回は付近の位置関係の見取り図がついていたので、それに理解が助けられる部分もあったのですが、やっぱり描写自体が上手いと思うんだよなぁ。上手いんだけど「上手いです!」て感じじゃないというか。笑 不思議。

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