サー・チャールズ・カートライトの演出

■アガサ・クリスティー『三幕の殺人』


物語を読みながらずっと拭えない感覚があった。この書かれた物語自体が、ナレーション自体が、物語の中の物語のように感じられたのだ。

つまり、私は「アガサ・クリスティ著『三幕の殺人』を読んでいる」のではなくて、「アガサ・クリスティ著『三幕の殺人』の中に書かれた、チャールズ・カートライト演出【三幕の殺人】という芝居を見ている」という感覚だ。

一枚モヤがかかったようなその朧げな光景というか。『幻の女』を読んだときと少し似ている。

それは、この芝居の演出家であり出演者でもあるチャールズ・カートライトの人格によるのかもしれない。意図してそのような印象を与えるアガサ・クリスティは、一体どんな手法を使っているのだろうか?と、感心せざるをえない。

<演  出>
チャールズ・カートライト
<演出助手>
サタースウェイト
ハーミオン・リットン・ゴア
<衣  装>
アンブロジン商会
<照  明>
エルキュール・ポアロ

途中までは、カートライトに「助手」のエッグとサタースウェイトを加えた、素人探偵団のようなチームが事件を追っていく。ポアロは終盤、限定的に登場するのみ。

ポアロが動き出す終盤は、おそらくポアロシリーズの読者の方なら「ああ、いよいよだ」という感じがするだろう。すると、この芝居じみた芝居がいつものポアロシリーズに上書きされ始め、クライマックスを経て【三幕の殺人】が「芝居」として終演する。かかっていたモヤが晴れると、芝居の【三幕の殺人】から物語『三幕の殺人』へと移行し、ポアロのとどめの一言によって、瞬間的にこの物語は終焉を迎える。フェードアウトではなく、ボリュームが一気に落とされるような終わり方が好きだ。

幕切れの一言が強烈で、彼がこの物語の当初からしっかり関与していたことを意識させられ、身震いした。


自分は何を求めてミステリーを読むのだろう、とか、フィクションを書く人はどのような思考回路で書くのだろう、と考えながら最近は読む。

平凡でセンスのない人間(私)は、創作をする時に人一倍の地道な努力をしなければならない。コツコツと続けて、書いた(描いた)枚数が結果として物を言うことがある。でも途中で100倍ぐらいセンスある人を見ると「こんなことしたって勝てるわけがないじゃないか」と諦めたくなる。そうやって途中で諦めるということ、つまりは継続できないということが、平凡な人間で終わるかどうかの分かれ目だ。

(なんだってこんな教訓じみたことを書いているのだろう。笑)

境遇のせいで、天才型の人は嫌というほど目にしてきた。そのたびに彼らみたいな100倍型センスのない自分、そして彼らの100倍努力できない自分を恨んで、落ち込んで、でもだんだん忘れたりそのうちなんとなく日々を過ごして、また天才に出会って、落ち込んで、そうやって何年も生きてきた。

アガサ・クリスティは果たしてどういう人種だったのだろうなぁ。


打ちのめされることは全然楽しくない。でも、満足し続ける人生で終えるよりは、ときどき打ちのめされるほうが性に合っているのかもしれない。アガサ・クリスティだろうと、アインシュタインだろうと、レオナルド・ダ・ヴィンチだろうと、同じ人間なんだ!と思うと、負けたくはないのです。笑

「きみが求めているのは可能性ではない。きみはドラマチックなものを求めてるのだ──カクテルの中に痕跡を残さない新種の毒があった、というような」


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