Twitterから離れてみた②|相対的な孤独

前回に引き続き、Twitterから離れて気づいたことを書いてみる。今回は「相対的な孤独」について。

あくまで自分による自分のための経過観察なので、一般論を書いているわけではありません。読んでも他の方にとっては全くためにならないと思いますので先に謝らせていただきます。また、あえて整理しすぎず思うままに書いています。「こんな考えすぎのヤツもいるのか」と楽しめる方もいるかもしれません。笑


孤独は相対的なものである

前提として私は孤独は「絶対的」ではなく「相対的」なものと思っている。

例えば生まれつき一人で育った人間がいたら(そのようなことは現代でほぼありえないけれど)、「孤独」や「寂しさ」という感情をもたないかもしれない。私たちが孤独(寂しさ)を感じるのは、過去の自分と現在の自分を比較しているから、あるいは他人と自分を比較しているからではないだろうか。

そう考えると、孤独は貧しさに似ている。絶対的な貧しさというものは存在しない。富める人を見るから「自分は貧しい」と感じるのだし、過去に所有した財産やいずれ所有したいと憧れる財産に対して現在の所有物が少ない場合に「今は貧しい」と感じる。

ただし、貧困にあえいでいる途上国の人が貧しくないと言っているわけではない。また、家庭環境で悩む人が寂しくないと言っているわけでもない。「事実」とは別に、自分が抱く貧しさ/孤独はあくまで相対的な「感情」だから、比較対象や状況次第でコロッと変わる可能性がある──ということだ。


Twitterによる相対的な孤独の正体

Twitterをやっていると「相対的な孤独」を強く抱いてしまう(しまっていた)ように思う。しばらく離れてみると、少なくとも現時点では、Twitterをやっていた時よりも孤独感が薄れた。

これはちょっと不思議な現象だった。Twitter(やSNS)は他人とのつながりを生むツールであり、孤独感を紛らわすものだろうと考えていたからだ。

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今でも、若干の寂しさはある。しかしその寂しさはTwitterをやっていた頃の寂しさとは比べようもなく軽症だし、理解しやすいものだ。

いま私が感じている「若干の寂しさ」の正体は、つながっていた人たちが見えなくなることによって生まれたものだと思う。毎日ツイートやいいねという形で目にしていた人たちがパッと視界から消えたので、その人たちに好意を抱いていたのなら、寂しさを感じるのは当然だ。

この寂しさは同じ寂しさでもどこか甘い匂いのするもので、不快感をもたらさない。他人に抱いている好感情が根っこにあるからだろう。

また、前回書いたように「ポジティブな感情をツイートしたい」という衝動がたまにあるので、それが叶わないことによる寂しさもある気がする。これは「感情や場を共有したい」という欲求が満たされていないのだと思う。

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では、Twitterをやっていたころの「相対的な孤独」とはどんなものか。これはもしかしたら個人的な、特殊な感情かもしれない。

(1)他人が(リアルの生活で)楽しそうにしているのを見ると比較してしまって「自分はそこまで楽しい出来事もないなぁ」と感じる。これは一般的かもしれない。しかし個人的にこのパターンはあまり多くないし、感じたとしても根が深くなかった。

(2)より強い孤独を感じるのは、自分のツイート量が周囲の人に比べて明らかに多いときだったように思う。簡単に言えば「暇人」だな……と自分で自分をみなしてしまうとき。笑 こんなどうでもよさそうなことが、今になってみると大きかったようだ。

「Twitterをこんなにやっている自分は、他の人に比べて時間が大量に余っている、つまり暇なのだ。他の人は毎日がもっと充実していて忙しくて、Twitterをやる時間がないのだ。自分は暇で寂しい人間なのだ」

という思考回路だったと思う。──うっすら気づいていたし、そんな感覚が不快でときどきツイートをやめてみたりしたが、「つぶやきたい」という衝動を抑えられずにツイートしてまたループにハマってしまうのだった(やれやれ)。


Twitterと孤独の関連性

Twitter自体をやらない今の私は、相変わらず暇だと思う。しかし先ほども書いたように不思議と孤独は薄れた。少なくとも悩まされるような孤独や寂しさに襲われることはない。

この現象について、上に書いた説明以外にも何か理由がある気がするので、ゆっくり観察していきたいと思っている。

一つの説としてぼんやり考えているのは、他のこと──つまり現実的な物事と向き合う時間が長くなった結果、それらが私に充足感を与えているかもしれない。ということだ。

こんなことを真面目くさって書くのもちょっと恥ずかしくなってしまう。みんなとっくに気づいて実践しているのかもしれない。でも、ありのままに感じたことを書いてみる。

花の色の移り変わりをゆっくり見る時間、買った本を手にとって触る時間、Fire  TV Stickを設定し直す時間。そういう時間において「つぶやき」という選択肢がない(=些細な感情の変化は他人と共有したくてもできない)おかげで、なぜだか私は思考的ではなく、より感覚的に現実と接することができているような気がするのだ。

これは、常々考えている「情報量保存(不変)の法則」(勝手な持論)と関連している気がするので、いずれその側面からも掘り下げてみたい。

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