謎の魅力と好奇心

■夏目漱石『こゝろ』(ネタバレあり)

「あなたは私に会ってもおそらくまだ寂しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその寂しさを根元から引き抜いてあげるだけの力がないんだから」(P.26)

ネタバレありです。国語の教科書などで、日本人なら必ずといっていいほどあらすじを知っている気がするので、気にせず書いてしまいます。


上中下とわかれているうち、上「先生と私」と下「先生と遺書」が“先生”をメインに書かれた部分。すごくざっくりとした感想をまず書くと、<上>の先生はもうこれ以上ないほど魅力的な人間として描かれているのに、<下>の先生は<上>と同一人物だということを忘れてしまうぐらい、普通で、魅力のない人間だった。

一般的にこの小説の主題として語られる「裏切り」や「三角関係」も面白いけれど、それ以上に私はこの「謎が人を魅力的に見せる」という現象に興味をもった。

よく似ているのが、遠藤周作の『海と毒薬』『悲しみの歌』のセットだ。

『海と毒薬』で、捕虜の人体実験という罪深い行いをした勝呂という医師がいる。その数十年後を描く『悲しみの歌』で、勝呂は地方で開業する謎の開業医として描かれ、周囲の人間によって過去が次第に暴かれていく──という構成。順序は逆だが、「当人の罪が露わにされる部分」+「第三者の視点から見た謎めいた人物」というセットは同じだ。

この勝呂も、先生と同様になんとも魅力的な人物なのだ。『悲しみの歌』のほう──罪を犯したのち、厭世的で孤独になって以降は。


魅力的、という言葉は不適切で不謹慎なのだろう。

先生は快活な男子であったのに、友人の恋を意図的に邪魔するという非常にズルい行動をとってしまい、友人を自殺に追い込んだ。罪の意識は重くのしかかり、心に闇を抱え、結局は先生自身も自殺してしまう。そんな人間を「魅力的」と表現するなんて、私は非道い感性の持ち主かもしれない。

でもそれは決して、苦しんでいる先生を見て「ざまぁみろ」と言っているわけではない。

<上>の段階では、視点である「私」はまだ先生の過去を知らない。知らないけれど、なぜか闇を感じる。「こんなに立派に見える人がなぜ自分をそう卑下するのだろう?」と疑問に思う。そのときの先生の、後ろぐらさを抱いた姿には「魅力的」という言葉がぴったりだ。

「私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今よりいっそう寂しい未来の私を我慢する代りに、寂しい今の私を我慢したいのです」(P.45)


──こうも話を単純化していいかわからないけれど、全てをわかりえない人、何かいわくありげな人、というのは、概して魅力的なのではないか。事情を知ってしまうと大したことはない……と言うと失礼なのだが、「そうかそうか」とどこか腑に落ちてしまう。もはやその人に闇はなく、謎はない。

相手に好奇心を抱いている時期と、すべての情報を攻略した後では、その人に感じる奥深さが変わる。相手は全く変わっていないのに。

人間を愛しうる人、愛さずにはいられない人、それでいて自分の懐にはいろうとするものを、手をひろげて抱き締めることのできない人、──これが先生であった。(P.21)

というちょっと邪道な視点(まあいつもか)を書いたけれど、文句なしに面白い。新聞に連載していただけあって、一気に読める3〜4ページごとに区切られている構成も、読みやすさに貢献していると思った。

手記という手法は、同様の三角関係を描いた武者小路実篤『友情』と似ている。しかし『友情』に比べると『こゝろ』はさすがに深みを感じるというか……たぶん、『友情』では勝者が強すぎた(頭の良い美男と美女が最初から相思相愛で、最終的にも結ばれる)一方で、『こゝろ』はもっと複雑なのだ。

外見は描写が少ないので置いておくとして(身長はK>先生)、学力はK>先生、資産はK<先生、人間性はわからないが(イーブン?)、恋愛の勝敗はK<先生(女の気持ちはやや不明瞭)、で、最終的に二人とも自殺──。

『友情』は勝敗がハッキリしすぎていてイマイチ感情移入できなかったが、『こゝろ』は先生にもKにも妻にも「私」にも、自分を重ねられる。誰一人完全な勝者がいない。ここが広く愛される所以ではないだろうか。

筋としては単純だけど、まさに「思想を物語でラッピングした哲学書」だなぁと感じた(以前その話をここで書いた)。

「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんなふつうの人間なんです。それが、いざというまぎわに、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」(P.81)

日本文学の良さは、その哲学の理解が容易なこと。

日本の、文字通りの“哲学”は西欧に比べて発達が遅れている(スタートが遅かった)らしいけれど、別に哲学者による言葉なんて読まなくても、文学を読めば、考えることがたくさん詰まっている。そしてそれらは外国文学より概して理解しやすい。肌で感じる、とでも言おうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?