見出し画像

時間という向きを持たない量

人が増え、テクノロジの進歩によりなんでもない人の作り出したものが人目に増える機会が増えた、そう、作品が土俵に上がるまでが近くなったのだ。

これを利用し、この様な場で収益を上げる人々も増えてくるわけで、収益を上げるには人を集めることが必要、創作してもらうという形で参加して貰えれば創作よりも他の記事を見ることが必然的に多くなり、結果収益をあげれる可能性も高くなる。創作よりも消費の時間の方が通常の人は圧倒的に多いのだ。

創作の数も増えると、このような駄文が産まれる。

この様な駄文でも、人に読まれる事によって読んだ人の時間を奪うことができる。その逆もまた然りで、意図せずとも我々は時間を奪い合って生きている。

そして収益は、より多く人の時間を奪える集まりに発生する。

一億人の時間を1秒奪うことができるなら、それは一人の人の3年と62日の時間を奪ったことと等しくなる。

我々個人には寿命がある。何事もなく生き延びたとしても必ず死ぬ。時間は限られているのであって、無限に使えるわけではない。

だから無駄なことはするなといいたいのではなく、どのような形、状態でも我々が持っている時間というのにはとても価値があるといいたいのだ。自分的には無駄にしたと思える時間も実は価値がある。何をしたとしても、何もしなかったとしても、等しく同じ価値がある。

我々は個人の肉体としては無限ではない。有限であり、できることに限界がある。

だが大勢の人が集まるとどうだろうか。さまざまなタイムラインの人々が集まり、誰かが倒れてもまた新しく誰かが参入してきて、それぞれが時間を提供してくれるのであればその集まりには大量の時間が流れ込んでくる事になり、自分ひとりでは成し得なかったことが人の一生以上の時間を掛け、できる様になるのだ。

そう。時間とは、エネルギーなのだ。

そして時給という言葉もある様に、時間がお金になるのなら、お金=時間=エネルギーもまた成り立つ。

エネルギーということは、エネルギーは質量と関係がある。ということは、時間は質量と似ている。

時間という大きなものを全員で共有している感覚というか。

時間を共有できるということは、我々は皆、個人という形で別れているだけであって元々はひとつなのではないだろうか。

個人ではなく集まりこそが正しい姿というか、元の姿というか。

だから最初にあった時間を奪い合っているという表現ではなく、エネルギーを維持し合っているというのが正しい表現なのかもしれない。

我々は大きな一つのエネルギーの塊なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?