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Ringlet the Fairytale 7.6thリリース

76話「煙と消えた新妻」あらすじ

 若い商人ハズムは所帯を持とうと考えムタリクを妻に迎える。ところが結婚式当日、花嫁を背に乗せた馬は商隊列にまぎれて何処かへ消えてしまう。カリフの宮殿でムタリクを見たという風のうわさを聞きつけたハズムは都へ向かう。

出典と補足

「百一夜物語 "ガリーバド・アルハサンとエジプト人の若者の物語"」
「百一夜物語 "腕輪の持ち主である若者の物語"」

百一夜物語について

 「百と一夜の書(百一夜物語)」(Kitab mi'at Laylah wa-Laylah)という耳慣れない書は、アフリカ大陸およびアンダルス(イベリア半島。現在のスペイン、ポルトガル)方面で広まったとされるもので「千と一夜の書」の姉妹本とも言わています。非常によく似た導入部分を持つ枠物語で、なんらかの関係性があるのは間違いないと思われますが、どちらがどちらに影響を与えたのかはよく解っていません。

 データとしては収録物語数は18(写本によって多少異なる)、現存する最古の写本は1776年(1657年没の作家の著書に言及があるようですが未確認)とかなり新しいものに見えます。「千と一夜の書」ではシェエラザードが物語を語りますが、「百と一夜の書」ではさらにシェエラザードと王のいきさつを語る賢者ファハラースなる人物が登場し、「賢者ファハラースはシェラザードが次のように(王に)話したと語った」という二重構造を取っている点が目を引きます。

 枠物語の冒頭と結末は以下のようになっています。
 すなわち大臣の娘シェエラザードが王のもとへ向かい、一夜ごとに物語を話して命をつないだ(と賢者ファハラースが語る)冒頭部分は同じですが、結末については何も書かれていません。百一夜目は枠物語中の物語で締められていて、王とシェエラザードがどうなったのかについてはファハラースは言及していないのです。詳しくは後述しますが、全体的に雑なのが特徴といえば特徴と言えます。

・東方から西方か、西方から東方か

 「千と一夜の書」は原型がペルシアにあり、アラブ文化に取り入れられた後に相当な年月を経て完成したとされています。これにはある程度の歴史的物的証拠があり、その信憑性を疑う理由はあまりありません。アラブ勢力圏の広がりと軌を一に伝播したと考えれば、まず東方の「千と一夜の書」があり、それが西方へもたらされて「百と一夜の書」が生まれたと考えるのが自然です。

 ところが、両者は第一話からいきなり違う話が語られますし、共通する物語はほとんどありません。骨格である王とシェエラザードの話ですら「百と一夜の書」では結末部分が切り捨てられています。もし、東方から西方という順序が正しければ、「百と一夜の書」は枠物語というガワとタイトル以外を捨ててしまったことになります。

 一方で「百と一夜の書」が先に成立したという主張もあります。この場合、ペルシア版の原型が早い段階でアフリカ大陸に伝わり、「百と一夜の書」が編纂された後に東方へ逆輸入されたことになります。イスラームが興った後、ウマイヤ朝がイベリア半島まで勢力を拡大するのに百年程度しか必要なかったことを考えれば、なくはなさそうな話です。「百と一夜の書」が荒削りなのは、より古い時代のものだからという主張に説得力を持たせることも出来ます。この説の苦しい点は、古い時代の資料に「百と一夜の書」への言及が見当たらないことでしょう。

 資料的裏付けに寄らない個人的印象では、おそらく多数の人が支持するだろう「千と一夜の書」が先にあり、「百と一夜の書」は同じ枠物語を利用しながら「千と一夜の書」に収録されていない物語を意図的にピックアップして編纂されたと考えるのが自然に見えます。以下にその理由を書き出してみます。

 「千と一夜の書」は完成へ至る過程で稀代の天才の手が入っていると考えられます。天才の仕事は大きく二点あり、ひとつは千夜だったものに枠物語を閉じる一夜を追加した点、もうひとつは徹底した編集作業にあります。このふたつはひとりの手によるものかもしれないし別人かもしれませんが、編纂作業が15世紀頃まで続いたことを考えれば複数人でしょう。ただし、一夜を足した何者かが優れた作家であると同時に優れた編集者だった可能性は高いように思えます。

 ペルシア版の原型は「千物語」あるいは「千夜物語」ということが解っていますが、この「千」が単に大きな数の代名詞なのか、あるいは本当に千の物語があったのかは解っていません。(後世の人間は後者を採用し、物語収集にやっきになったわけですが、中世に同じ考えを持った人間がいなかったとは言い切れません。さらに言えば、シェエラザードは好きなところで物語を区切って日数を稼ぐことが出来ました)
 その後、12世紀の資料には「千と一夜の書」という記述が出てきますので、10.11世紀ごろの誰かが王とシェエラザードの先一夜目を追加したことになります。あるいは王とシェエラザードの物語は元からあって、それを含めて千だったのかもしれませんし、「百と一夜の書」のように結末はなかったのかもしれません。しかし、誰かがふたりの物語の結末に特別な一夜を与え、「千と一夜の書」が完成したことは事実です。

 さて、ここで最初に立ち返り、「百と一夜の書」が「百夜の書」ではないことに気が付きます。もし、「百と一夜の書」の方が先にあったとすれば、王とシェエラザードの結末を収め忘れるなどということがあるでしょうか?(「千と一夜の書」ではなく「千物語」からヒントを得たとすれば「百夜の書」になったはずです)

 もうひとつの徹底した編集作業について、これがふたつの書の性格を決定的に異なったものとしています。詳しく言えば「千と一夜の書」は読まれるためのもの、「百と一夜の書」は口承伝承を書き留めた性格が強いということです。

 「百と一夜の書」を読むと、以下のように非常にいきあたりばったりな展開やうんざりするほどに反復が多い事に気づきます。

・男性だと思っていた豪傑が実は女性という展開の繰り返しが多い。
・天幕で一夜を明かすと翌日に消えている展開の繰り返しが多い。
・重要そうな役割の人物が活躍せず退場する。

 「千と一夜の書」の物語にも三番目の要素はそこそこ散見されるものの、矛盾がないように配慮された跡が見受けられます。これは編集者が何度も読み込み、出来るだけ矛盾がないように物語を修正していったからではないでしょうか。一方の「百と一夜の書」に投げっぱなしの物語が見られるのは口承伝承をそのまま文字化して固定することが主眼で、編集に重きを置かなかったからではないかと考えられます。「百と一夜の書」を制作しようと思い立った者は(一代で書き上げた可能性が高いと思われます)12世紀以降の人物で、「千と一夜の書」を参考に、そこには記されていない、自分たち西方世界に伝わる物語を詰め込むことでオリジナリティある一冊を仕上げました。それに「千と一夜の書」ほど長大なものでもないという意味で「百と一夜の書」のタイトルを与えたと推測できるでしょう。

 原本にはチュニジアやモロッコ方面の方言が多く含まれているそうで、アズラク人(ベルベルの部族のひとつ)や設定をウマイヤ朝時代に置いた話が多いなど、「千と一夜の書」とは一味違う物語を楽めるという点で「百と一夜の書」は十分な価値を持ちます。

 また、日本で初めて「千と一夜の書」を訳出した前嶋信次氏のあとがきにはすでに「百と一夜の書」の記述があり、専門家の間では以前から知られていたようです。

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