天国の入り口

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 最初に本文をお読みください。著者がどういう意味で「天国」という言葉を使っているのか明確ではありませんが、文字通り死後に行く所の1つである「天国」だとするなら、僕は著者と意見が違ってきます。

 「世界中どこに住んでいたとしても、天国からの距離はみな同じ」というのには同意します。しかし、「自分が与えられた場所で、精一杯に生きるなら、どんな場所でも、そこが天国への入り口です」という意見には同意できません。

 聖書は「真面目に精一杯生きているなら天国の入り口に繋がる」とは決して教えておりません。どんなに真面目に精一杯努力していても、それが認められて天国の入り口になることは絶対にありません。

 聖書にはっきりと書かれています。

*** イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもと(天国)に行くことはできない。ヨハネ14章6節 ***

*** この人(キリスト)による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。使徒4章12節 ***

 そうなんです。キリストを自分の救い主として選び、信じること、それが天国の入り口になるのです。これ以外に天国の入り口はありません。ですから、ここを絶対に間違ってはいけないのです。精一杯努力して生きているなら、それがいつか天国の入り口になるだろうというのは全くの勘違いなのです。

 どんなに精一杯頑張っていたとしても、それが間違った選択(方向)ならば、いつまで経っても目的地に到着いたしません。ですから努力よりも先ず正しい選択が重要なのです。努力をバカにしているのではありません。努力が努力として報われるためには、先ず正しい選択をしなければならないのです。キリストを自分の救い主として選び信じる。これが正しい選択であり、これが天国の入り口になります。

 更に聖書は、死後に行く天国だけでなく、この地上の人生においても天国の味見が出来ると教えています。つまり日常生活において天国をプチ体験しながら生きていくのが人生だと聖書は教えています。

そしてこの場合も、自分の基準で精一杯努力すればそうなるんだ…というのではありません。聖書が教える生き方の基準を自分の生き方の基準として選び、そのように生きていこうと努力するときに、日常生活でも天国のプチ体験ができるようになるのです。

***参照聖句***
彼(キリスト)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼(キリスト)は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。ヨハネ1章12-13節

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