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すでに父親と向き合っていた自分

重すぎるテーマ

「猫を棄てる」を初めて書店で見かけたとき、その表題から、「あぁ、春樹さんはついに父親と向き合ったんだな」と思った。

いつもなら、春樹さんの新刊は、中身を確認することなく、目にすると必ず購入する。しかし今回は、購入するまで時間がかかった。

書店で見かける度に手に取り、中身をパラパラと読み、また棚に戻す。その作業を10回は繰り返しただろうか。結局、1カ月経ってから、ようやく購入した。

こんなに時間がかかった原因は、「猫を棄てる」という作品ではなく、私の中にある迷いだ。

9年前に父親を亡くしてから、春樹さんと同じように、私自身もずっと、いつか父親と向き合わなければならないと思ってきた。父親というのは、私にとって重いテーマだ。大好きな春樹さんとはいえ、このテーマについて書かれた本を読むのはためらわれた。

しかし、書店で「猫を棄てる」のページを何度もめくるうち、その「いつか」は、もしかしたら、「今」なのかもしれないと、思うようになった。「猫を棄てる」を読むことが、そのきっかけになるかもしれない。

春樹さんの本は、20年近く愛読している。作品自体はもちろん好きだが、いつかどこかで、「春樹さんと父親との間には溝のようなものがあるらしい」ということを耳にして、一方的な親近感を持った。そのことが、皮肉にも、春樹さんの作品をより好きにさせた。

物心がついた頃から、私は、父親に対して葛藤を抱えてきた。細かい内容は違っても、同じような感情を抱えているであろう春樹さんの書いた作品なら、自分の中にスッと入ってくるような感覚があった。自分と同じ感情を知っている人の紡いだ言葉なら、なぜか安心できたのだ。

春樹さんの父親との向き合い方

「猫をすてる」を読んで、春樹さんの父親が亡くなられたことを知った。そして、父親の死後、様々な人に会いながら、その人生をたどっていったことも。

父親について調べ、それを文章にしていくことで、春樹さんは父親との間に長い間あった絡まった糸を、少しずつほぐしていったのだろうか。完全にほぐれたわけではないけれど、ところどころ、小さな玉のような結び目が残っているけれど、はじめよりは、随分良くなったのだろうか。「猫を棄てる」を読んで、私はそういう印象を受けた。

私には、父親の人生をたどることはできない。一つは、父親側の親戚とは、もうずっと疎遠になっていて、会う術がないから。もう一つは、苦労ばかりだった父親の人生をたどることができるほど、私のメンタルが強くないからだ。

父親について、私が知っている事柄は、悲しいものばかりだ。父親は、戦後の生まれだが、まだモノがない時代で、いもばかり食べていたため、いもが大嫌いだった。私は一度も、父親がいもを食べるところを見たことがないほどだ。子供の頃は、勉強ができなかったため、優秀なお兄さんと比べられ、うとまれていたらしい。まだ若い頃に、母親と二人できりもりしていた食堂で、従業員にお金を持ち逃げされたこともあるそうだ。

知っているわずかな事柄だけでも、一つも良いものがない。これ以上、父親の人生をたどっても、辛く苦しいことが出てくるばかりだろう。当時、父親がどんな思いで生きてきたかを想像すると、胸がしめつけられるほどキリキリする。私のメンタルは、とても耐えられそうもない。

私の父親との向き合い方

生前、私は父親が嫌いだった。感情的で、酒飲みで、きちんと働くこともしない。何度も何度も泣かされた。でも、その一方で、大人になるにつれ、父親の痛みや悲しみ、やるせなさを段々と感じることができるようになり、情みたいなものが湧いてきた。世界一嫌いなのに、心底嫌いになりきれない。考えるだけで、くらくらするような、父親に対する複雑な感情は、私を苛立たせ、徐々に父親と距離を置かせることになった。

父親の死後、私は自然と「こういうとき、父親だったらどう思うだろう?なんて言うだろうか?」と、度々、心の中で問いかけるようになった。「お父さん、3人目が産まれたよ」と、報告もした。あんなに嫌っていた父親に。

どうしてだろうか?

「猫を棄てる」を読んで、その答えが分かった気がした。私は、心の中で、私の問いに、父親がどう答えるかを想像することで、父親を理解しようとしてきたのではないだろうか。少しずつ、でも着実に、ずりずりと、父親に近づこうとしてきたのではないだろうか。無意識に。

父親がこの世を去ってから9年間。
私はすでに、父親と向き合い続けてきたのだ。

もう「いつか父親と向き合わなければ」という重い荷物を背負う必要はない。

ありがとう、春樹さん。
私は一つ、軽くなりました。

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