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永遠に生きるための楽園

最後のページをめくり終わって、顔を上げてほうっと息をつく。

あの瞬間がたまらなく幸せだし、それと同時にたまらなく寂しいと思う。

無事に最後まで彼らの物語を見守ることができた幸せ。

もう、これ以上彼らの人生に携わることのできない寂しさ。

そのどっちもがやってきて、ふつふつと目頭が熱くなる。

「出会えてよかった」と思うような小説はそんな風にして閉じることが多い。

最近、手に取った小説の横にあったものが運命の本だったらどうしようというようなnoteを書いたのだけど

それでも、運良く出会えることがあるんだから本を選ぶことはやめられないよなあと思ってしまう。

今回読んでみた原田マハさんの『楽園のカンヴァス』もまさに、読み終わったあと興奮して顔がしばらく火照ってしまうくらいの、出会いだった。

ずっとずっと気になってはいたのだ。

最近よく見かける作者さんだし、内容自体も「美術ミステリー」という、絶対にすきなやつ!ってわかっていた。

ただ、あまりにも期待しすぎて「ううん」と思いたくなかったので『異邦人』『花々』『翔ぶ少女』という緩やかなステップを経て満を辞したのである。

や、『異邦人』の時点でもう最高に面白かったので一刻も早く手に取りたかったのに、タイミングがなくて今日なだけなのだけど。

普段は本を読み出すとあまり気を散らしたくないので携帯は放っておくことが多い。

だけど、この物語は読み出してすぐに携帯を傍においた。

なぜなら、絵画が物語のあらゆる箇所に登場するからである。作品名が出てくるたびに検索して「これを書いたあの頃か」「この表現は出るのはこういう事情か」とリアルに想像しながら読んでいくことによって、物語への没入感はどんどん増す。

物語『夢のあと』と同じように『楽園のカンヴァス』が事実なのか創作なのかわからなくなってきてしまった。でもそれこそが小説の醍醐味であると思う。

そのあとも、『夢のあと』の続きも読みたい、絵画の謎も知りたい、織絵のことも気になるともう気になるづくしで一度たりともページを繰る手が止まらなかった。

だんだんと左手のページ数が少なくなってきて、物語がぐるりと動く。

全てがきちんと終わりに向かって、ルソーがいた楽園も終わってしまった。そうか、彼は死ぬのかと当たり前ながらに思う。誰だって死ぬ。当たり前のことだけど、それが永遠に生きさせることができるのだ。芸術家たちは。彼が愛したヤドヴィガも絵画も、生きて100年経ったなお、私たちはそれを見ることができる。

こんなエピソードは冒頭にもあったなとふと思う。

そしてそれを文章というかたちで表現したこの物語だってきっと残ってゆくことができるのだろう。

ああ、良いものに会えた。

織絵がティムに言った言葉ではないけど、読んでいる間中まるで『楽園』にいたみたいだと思うのだ。こうやって熱量のままキーボードを叩いているのだってまさに『夢のあと』。


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