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戸田漁港のトロボッチ

8年前の夏、僕はバイクに乗って気ままに旅していた。

伊豆の修善寺で一泊した翌日、県道18号(修善寺戸田線)を西伊豆の戸田(へだ)へ向かった。

伊豆半島の大半は山に覆われている。山深い道をのんびりと走って戸田港に辿り着いた時、なんと静かな漁村だろう、と真っ先に思った。

例えば、東伊豆の熱海や下田といった知名度の高い港町と比べれば規模も小さく、ひっそりとしている。

そんな戸田港が、日本で初めて洋式造船を行った場所ということを最近になって知った。

1854年、日米和親条約が締結されてペリーが下田港を発ってから半年後、
今度はロシアのプチャーチン提督一行が、アメリカと同等の交易を求めて同じく下田港に来航した。

しかし、彼らは運がなかった。交渉が始まって間もなく、安政の東海地震が起きた。津波が下田を襲い、交渉はやむなく中断となる。プチャーチンが乗船していたディアナ号は大きな被害を受けたため、幕府に船の修理を要請した。このままでは交渉どころか、祖国にも戻れない。その船の修理をするために選ばれたのがこの戸田港だった。

戸田港は比較的水深が深く、遠洋漁業の起点に適した場所とされていた。その影響もあって、古くから船大工が多く集まっていた地域でもあった。

しかし、プチャーチン提督一行にとって不幸は重なる。下田港から曳航されたディアナ号は戸田港へ向かう途中に沈没してしまうのだ。

日本との貿易を求めにやって来た彼らは、ついに母国へ戻る船まで失った。

戸田村に住む人々の協力や救助もあって、500人に及ぶロシア人乗組員をこの土地で保護した。祖国に戻る船を失ったプチャーチンは、交渉を再開させると同時に、戸田港で代船建造の申請をする。

建造を担当した日本の船大工にとって、洋式造船はこの時が初めだった。
ロシア側が持っていた設計図や技術支援の下、わずか3ヶ月で代船が完成した。プチャーチン一行は、その完成した代船を地元の人たちの敬意と感謝を込めて「ヘダ号」と名付けた。

当時、僕が戸田港へ向かった目的は「トロボッチを食べること」だった。

トロボッチとは、深海魚アオメエソ、メヒカリのことだ。

戸田を含む静岡県の沼津市では、昔からトロボッチと呼ばれている。戸田港は駿河湾の深い海底が隣接していることもあって、深海魚が多く捕れる地域としての特色がある。

僕は湾内に建ち並ぶ食堂の前にバイクを止めると、ちょうど店前で一服していた店主に声を掛けた。

「すみません、トロボッチはこちらで食べれますか?」

あまりに唐突な質問に関わらず、店主は「もちろん!」と快く応じてくれた。

トロボッチは、干物、刺身、唐揚げ、天ぷらなど色々な調理方法で食べれるのも魅力の一つ。

店主にどうするかと言われて、僕は揚げてもらうことにした。

まもなく、揚げたてホクホクのトロボッチがお皿に山盛りでやってきた。山盛りといっても、一匹一匹は小さな魚で骨までサクサクと食べれる。

脂がのったホクホクのトロボッチを味わいながら、店主からトロボッチにまつわる話を教えてもらった。

「この辺の幼稚園には、ボッチ組というのがあるくらいだよ」

さすが漁港の町である。戸田の子どもたちは、幼い頃からトロボッチを食べて育つのだろう。

僕があまりにトロボッチ、トロボッチと言うからか、サービスで刺身にもして出してくれた。

腹が満たされた後、ふと店内にあった一冊の本が目に入った。

「深海魚 暗黒街のモンスターたち」

食後のお茶を飲みながらページをめくると、何とも恐ろしく奇妙な形相をした深海魚たちの写真が載っていた。

すると、店主が言った。

「その本面白いでしょう? 宇宙のことは広く知られるようになっているけど、深海のことについて知っている人は意外と少ないんじゃないかな」

そういえば最近、真っ黒な深海魚がアメリカで新たに発見されたというニュースをインターネットで知った。それはまさに暗黒街のモンスターを思わせる、僕の目には恐ろしい顔立ちをしていた。

トロボッチは、小さな体の割に目が大きいのが特徴だが、同じ深海魚であってもこちらはスマートで何とも愛くるしく思えてくる。

***

(写真は、2012年夏に戸田港で撮影)

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