表現の機微

これ見てたけど僕はこういうの反対派。

まず前提としてパブリックチャンネルで業務連絡をしましょう、という方針には、情報の非対称性を防止する意味で賛成

一方で、「飯行きましょう!」とかサクッと声掛けするときにDM警察が出てきたら香港デモ並みの勢いで警察に反抗したくなる。あるいは、その人とは飯いくのやめようかな...と、モチベが減退する。

まあ、このポストのLAPRASさんは「弊社LAPRAS株式会社のSlackは発言の殆どがパブリックチャネルにポストされており、全社的に非常にオープンな状態であるといえます。業務をしていてDMを受け取ることは稀で、その内容もパスワードなどの秘匿すべき情報や、休日の遊び関係の会話(子供どうしで遊ばせる会のために集合場所を決めたりetc)などであり、なんら違和感を覚えることはありません。」と書いてあるし、DM警察なしでも回る健全性があるので、それはとても良さそう。でも他の会社がいきなり警察Botを導入してうまく回るかと言われると微妙かなと。

DM禁止しないと組織の情報共有に最適なコミュニケーションが取れないのは、ひどく強制力のあるコミュニケーションレールを敷かないと、組織が機能しないという、不健全性を示していると思う。もっと言えば「会社の不満をツイッターに書くのは、吐き出し先として不適切だしネガティブな印象が流布されるのでやめろ」という主旨と似てると思ってて、「いやそもそもツイッターに書かないと課題を共有できないような状況って信頼関係崩壊してない?」と思ってしまう。

だいたいこういうのは表現の機微に日頃から気を払えていないことによる信頼関係の欠如か、発言を受けて何か状況が変わることへの期待値の低さがコアな問題になっていると思う。

職場のコミュニケーションに不都合があったとき、たとえ強制力が薄いやんわりとしたものでも、Botで伝えるようなことはあまりしたくない。本当に最終手段だと思うし、基本的にはツールの機能を有効活用し続けつつ、日々のコミュニケーションの表現の機微に気を払って信頼を積み上げたい。そこをすっぱり諦めてしまうのは、ちょっと冷淡に思える。

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