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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(15)

〈前回のあらすじ〉
 
水族館でのアルバイトはあっけないほどに採用となったが、主任の高木の軽率な詮索が鼻につき、諒は自分の中に潜むもう一人の破滅的な自分を抑えきれなった。聞かれてもいないのに自分の身の回りで起こった二つの自死や母親の引きこもりを打ち明けた。幸い、アルバイトの採用は撤回されなかった。帰り際、思いがけず佐藤かおりが、「私も片親なんです」と打ち明けてきた。

 15・僕らは彼らが自ら演出したショーを見るだけの観客になってしまった

 面接の翌日から、僕は気ままに起床していただらしない生活習慣を正そうと努めた。

 この一年余り、何かをするために決められた時間に起きるという習慣を持っていなかったので、学生でも勤め人でも主婦でも当たり前のように持っている責任感や切迫感が、僕には欠落してきた。しかし、一週間後には、はるかな過去に置き去りにしてしまったそれらを、再び身につけておかなければならなかったからだ。

 アラームを設定すれば、その音で目を覚ますのだろうと想像はできても、そうした生活のサイクルを僕のなまった身体が受け入れられるのかわからなかった。だから、面接で採用を言い渡されて家に戻った僕は、かんたんな食事を済ませて、すぐベッドに横たわった。眠くはなかったが、脳にも身体にも、翌日に何かをしなければならないという感覚を植え付けなければならなかった。しかし、結局僕は、日付が変わっても眠ることができなかった。

 翌日の午前六時に、僕は目覚まし時計のアラームにより、浅い眠りから引き戻された。

 出勤は一週間後からなので、午前六時に起床しても、僕にはやるべきことがなかった。しかし、ここで二度寝してしまっては、何のために働きに出ようと決意したのかうやむやになってしまうので、僕は改めて身体を横たえることなくベッドから降り、直の部屋に行き、差し出し人不明で送られてきた水族館の本を無造作に取り上げ、直の机の上でそれを読むともなく読んだ。

 飼育員の仕事とは魚や海獣たちに餌を与えるだけだと思っていたが、それぞれの生態により水槽の環境を整えなければならなかったり、繊細な繁殖に挑まなければならないのだと知り、目から鱗が落ちた。そのほか、水族館には調教師もいれば獣医もいて、それぞれの仕事も多岐にわたっていた事に感銘を受けた。気がつくと日が高くなっていて、僕は久々に新鮮な空腹感が湧いてくるのを感じた。

 僕は階段を下り、母親がいる居間を通らずに、洗面所を回って台所に入った。そして、鍋と薬缶に水を張り、火にかけた。母親は居間にいたが、僕の気配には無反応だった。居間からは、テレビの音だけが漏れていた。観客を集めたスタジオで、コメディアンが司会者にからかわれているのだろう、話の内容はわからないが、時折観客の笑い声だけが台所まで届いた。

 冷蔵庫を開けて、僕はビニール袋に入った生麺を取り出した。そして、鍋の中で沸いた湯にほぐした麺を入れ、一食分ずつパックされた濃縮スープを丼に絞り出した。程なくすると麺が茹で上がっだので、ざるに取り、薬缶で沸かして湯で溶いたスープが満たされた丼の中に移し入れた。

 母親が直の死から一切の家事を放棄してしまったので、僕は自分の食事をそのようなもので賄っていた。台所に降りてくれば、残飯が僅かに増えていたり、レトルト食品の包装をゴミ箱の中に見つけることができたので、母親は母親で何かしらを食べているようだった。それらを見つけて、一応は僕も安心する。その代わり、母親はまったく外出しなくなったので、食材の調達は僕がしなければならなかった。

 直が死ぬまでは台所に立つことなどなかった僕なので、どんな食材を買えばどんな料理が出来上がるのか想像もつかなかった。スーバーマーケットに行き、その入口あたりに掲示してある広告を眺めてから、その日の特売の食材をこまめに買った。僕自身はもっぱらこうして生ラーメンを作るのが精一杯の自炊だった。最近では、試行錯誤の末に電気炊飯器で白米を炊く技術を身につけることができたので、レパートリーの中にカレーライスも加わっていた。生憎、ご飯の上にかけるカレーはレトルトだが。

 チャーシューの代わりに麺を茹でた残りの湯で温めたソーセージを二本、ラーメンに載せた。それを両手で慎重に持ち、僕は階段を上がって再び直の部屋に入った。窓を開け、晩秋の乾いた空気を部屋に取り入れると、その空気に乗って、さっきまで台所で聞いていたテレビの笑い声が届いた。僕は母がいる階下の部屋から届いたものかと思ったが、隣の家の二階の部屋の窓が掃除のためか開放されており、そこにあるテレビが、居間で母親が見ているのと同じ番組を垂れ流していただけのことだった。

 僕は直の学習机の上に丼を置き、長身だった彼には見合っていなかった小さな椅子に座り、ラーメンを啜った。

 僕たち家族は、よく城を巡った。

 父親も直も理数系だったので、特に日本史に興味があったというわけではなかったが、僕らが住む北関東には、これといった娯楽施設がない代わりに、思いの外城や城址が多く分布していた。必然と人々は休日にそこへ足を運び、自ずと故郷のなりたちやそこで偉業を成し遂げた歴史人について学ぶのだった。思い起こせば、小学生の頃の遠足も見るものなど何もない城址だったし、中学生の頃の社会科見学も復元されたどこかの城だった。

 僕ら家族は、何百年も前に作られた精巧な城壁を撫で、修復の行き届いた天守に上った。城を取り囲む公園にある休憩所で軽食を食べ、子供だましのような民芸品を買って帰るという、素朴な休日を淡々と過ごした。

 我が家が城址を巡るようになった理由は、父親が城や歴史について興味を持っているからだと僕は思っていたが、父親はただ単に、家族で遊園地やショッピングモールに行くという選択肢を全く思いつけなかっただけだったのだと、独り言をこぼすように直しが耳打ちしてくれた。僕も、父親が自分の子供との接し方に戸惑っているのではないかということを薄々感じ取っていたから、直の告白に動揺するようなことはなかった。もしかしたら、父親は幼少の頃に同じような距離感で自分の親に育てられたのかもしれないと、直は静かに付け加えた。

 そんな風に、父親は自分の思いを言葉や態度に表すことが下手な人だった。僕や直だけでなく、母親に対しても。

 ある時、かつて同じ日本人同士が血で血を洗う決戦を繰り広げたという城を巡った時、父親と母親が口論したことがあった。

 突き抜けるような青が広がる春の空の下、これといった高揚感もない代わりに、これといった失望感もない相変わらずの休日だった。僕は小学校に上がったばかりで、直はすでに中学生だった。

 家路につく車の中で、ふと母が城の名を口にした。幼かった僕にはわかるはずもなかったが、その名称が僅かに間違っていた。

「『ヶ』が入るんだよ。『ヶ』が」

 父親がハンドルを握り、フロントグラスの向こうの、日が傾きかけた街並みを見つめたままそう言った。

「そうだよ。『ヶ』が抜けてる。おかしいよ」

 父親の指摘に便乗して、助手席にいた直も母親の揚げ足を取るようにそう言った。

 その刹那、母親の顔色が一変するのを、僕は目の当たりにした。

 後部座席で僕の隣にいた母親は、狭いレッグスペース、子供のように地団駄を踏んだ。

「些細なことでしょ。そんなこと。それに、二人で一緒になって責めなくたっていいじゃないの」

 母親は、父親や直が言っている誤りを認めていた。認めながら、それまで間違った認識のままでいたことを恥じていたようだった。

 母親はなだらかでのどかな雰囲気のある鼻梁を話題にされたときでも、うっかりしていると曇り空の下でも日焼けしてしまう柔肌をからかわれたときでも、決して激昂しなかった。怒ったふりをしてみせても、その瞳の底には柔和な寛容が漂っていた。だが、その時の母親の取り乱し方は、野生生物が窮地に追い込まれた時に見せる捨て身の狂乱のようだった。もちろん父親にも直にも微塵の悪意はなかった。

「あなたたちに、城の何がわかるっていうの?城は名前一つでどうにかなるものでもないでしょ?」

 母親の言い分は支離滅裂だった。彼女の勢いに、すぐさま直は押し黙った。おそらく、直にとっても、母親がそれほどまでに取り乱す姿を見たのは、初めてだったに違いなかった。

「悪かったよ。些細な指摘だった。母さんが言うように名前なんてどうだっていい」

 父親が母親を宥めた。

「誰も、名前がどうだっていいなんて言ってないじゃない。私は、名前一つで、今ある城の存在がどうにかなるものでもないでしょ、といったの」
「最早、言いがかりだな」徐々に父親の言葉にも、険が見え隠れし始めた。「些細なことかもしれないが、『ヶ』があるかないかで、あの城は全く別の存在になってしまうかもしれないんだ。僕はそれほど城に詳しくはないが、あの城の名前から『ヶ』を欠いてしまったら、ここではない別の城を示すことにもなりかねないじゃないか」

 父親はバックミラー越しに時折母親を見て話したが、母親は父親が座っている運転席の方には一切顔を向けなかった。俯き、震え、まるで自分の両膝に宿ってしまった悪霊と対話をしているようだった。

「あなたの従姉、『美津子』ちゃんでしょ?でも、みんな『みっこちゃん』って呼んでいるわ。それでも『美津子』ちゃんに変わりはないでしょ?」
「美津子と城は別物だろ」
「いつも、あなたたちは私を下に見ている。確かに、あなたは勉強熱心だったわ。直もあなたに似て、秀才と呼ばれている。でも、家族の関係にそうした優劣って必要かしら?」
「話が逸れているぞ」
「いいえ、逸れていません」母親は頑なだった。「もしも、諒が大きくなってあなたたちの敷いたレールを真っ直ぐ走っていったら、家にとどまっているしかできない私は、どうしたらいいの?」

 母親はそう言って両手で顔を覆い、後部座席の背もたれに身体を投げ出した。そして、腹の底に溜めていた言葉を止めどなく指の隙間から漏らした。だが、そのどれもがまともな言葉となって落ちることはなかった。

 車内の空気が凍った。

 父親も直も、なにも言葉を発せず、微塵も身体を動かそうとしなかった。僕はと言えば、目の前で繰り広げられていた諍いの本質を全くつかむことができず、更には僕の成長の仕方次第では、母親を家庭内で孤立させてしまいかねないという重圧をいきなり背負わされ、それを恐れてめそめそと泣いているだけだった。

 我々を乗せたセダンは、混雑したバイパスの流れに溶け込み、日常という名の混濁のひとしずくとなった。

 僕は、恐らくその頃から家族というものの不確かさを自覚していたように思う。僕や直は、まだ父親や母親と血でつながっていたが、父親と母親に関しては、確固としたつながりなど見つけることはできなかった。ある意味で、そんな不安定で不確かな二人を、僕と直がつなぎとめていたのかもしれない。

 それでも、僕らはまた城や城址に行くに決まってる。些細なことで諍いを始めようと、僕らはそうすること以外で、互いの居場所を確認することができなかったのだから。

 ラーメンを食べ終えてしばらくすると、階下からいつもの母親の読経が響いてきた。

 親戚などは、自殺者を二人も出した我が家に関与しなくなっていたし、僕の旧友たちも、まさか僕や僕の母親が先立った父親や直の後追いをしやしないかと戦々恐々としていたので、母親の歪んだ信心や、僕の弛んだ暮らしに口を挟むことはなかった。僕はそうした周囲の寛容の体をした疎外に乗じて、自発的に今の生活を変えようとしてこなかった。

 父親と直の遺影が飾られた仏壇は、母親が独占していた。僕が居間に入っていくことを母親が特に嫌ったという訳ではないが、僕の行動や僕の存在そのものを元からなかったもののようにしてしまった母親のいる居間には、僕の方から積極的に入っていくことが憚られた。

 今となっては僕と母親との間に、親子の絆など存在しなかった。

 父親の後を追うように直が去ってしまうと、僕もいずれは母親を見捨てて消えてしまうのだろうと、母親は猜疑心を膨らませていたに違いない。僕はたった一人残された肉親とではなく、悪質な信念に心を奪われている未熟な宗教家と同じ屋根の下で暮らしていたに過ぎない。

 僕がこの家を出ていこうと発起すれば、母親は僕を止めなかったと思うし、僕の不在を不思議にも思わなかったかもしれない。母親がいつもの暮らしとの違和感を感じるのだとしたら、常に補充されている冷蔵庫の食料品が次第に減っていき、いつしか底をついたときだろう。その頃になって、ようやく母親は自分が誰かの手助けなしに暮らしていくことが出来ないということを知るのだ。そして、その誰かというのが、自分の母胎から二番目に落ちた子であったことに気づけたら、母親はまだ再生の余地があるのではないかと、僕は淡い期待を心の隅に残していた。

 父親と直を失ってから、僕も母親も、僕らの間から消滅してしまった家族の結束を信じなくなっていた。母親にとっては夫、僕にとっては父親だと思っていた男が、見ず知らずの女と心中を図った。従順で責任感の強いはずだった直も、独りよがりで現世との決別を選んだ。不意に予告もなく彼らが姿を消したことに、僕も母親も納得していなかった。しかし、何より懐疑的だったのは、父親も直も、死という選択をするまで、その兆候を僕らに一切表さなかったことだった。

 悩んでいたり思いつめたりしていれば、家族である母親も僕も気にかけるに違いなかった。自殺をするための道具をこっそりと揃えるにも、彼らには全くの手抜かりがなかったので、僕らは彼らが自ら演出したショーを観るだけの観客になってしまった。観客はただの観客であり、舞台の上の演者には触れることができない。だから、僕も母親も、父親と直の喪失を嘆きながらも、乱暴に突きつけられた彼らの裏切りを、持て余す以外になかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(16)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

 

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