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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(19)

〈前回のあらすじ〉
 
忌まわしい心中事件や自殺で家族を失い、残された母親までもが引きこもってしまうと、周りの大人たちは腫れ物を触るように諒から距離をおいた。しかし、実直の塊のような竹五郎は、そんな諒を一人の人格者として正面から向き合ってくれた。諒の素性を知っていようといまいと

19・赤ん坊が泣きながら生まれてくるのは、これから訪れる不幸を悲観しているからだ

 クリスマスが近づくと、冬休みを満喫している子供たちを連れて多くの客が来場した。アルバイトの身分である僕は、飼育棟での仕事の合間に、館内の装飾や事務所の整理などの雑務にも引っ張り出された。そうした時間は、一体どのようにして過ぎていったのか思い出せないほど、忙しかった。長らく鈍っていた僕の身体は、濡れた床を磨いたり、餌用の凍った大量の小魚を運んだりして悲鳴を上げていたから、明らかにその時期の仕事量は、僕の能力の限界を超えていた。

 情けないことだが、途中で嫌になって辞めたいと思ったことは、否定できない。だが、それでもなぜ辞めなかったかと言えば、これだけの仕事を三十年以上も続けてきた人が目の前で寡黙に働き続けていたことが、僕の励みになっていたからだ。また、辞めると切り出すことで、佐藤かおりに軽蔑されたくないという下心も、確かにあった。

 母親と同じ屋根の下にいながら、無人島にでもいるような孤独感を味わうことに比べたら、こうして水族館で働いている方が断然ましだと思うようにもなっていた。

 冬の寒さは厳しさを増していた。街はすっかりクリスマスムードではあったが、一緒になってそれを楽しむ家族や恋人がいなかった僕は、忙しい最中に与えられた休暇に、父親と直が眠る墓を参った。

 そして、そこで再び、柳瀬結子と再会した。

 以前と同じキャメル色のハーフコートを着た柳瀬結子は、アルミパイプでできた小さな折りたたみの椅子に腰掛け、じっと墓石を見つめたままの姿勢で、僕を待っていた

 直が遺していった紺色のピーコートを着た僕の姿を見つけると、飼い主を見つけた子犬のように、柳瀬結子は嬉しそうに立ち上がった。

「もし迷惑でなかったら、どこかでお茶をご馳走させてもらえないでしょうか」

 僕と向き合った彼女は、凍えそうな吐息混じりに、そう言った。

「僕が、今日ここを訪れることを、予測していたのですか?」

 僕が訝しげにそう言うと、柳瀬結子は小さく首を横に振った。

「いいえ、何日か通い詰め、ここで待ちました。四回目で、やっとお会いすることができました」

 柳瀬結子がなぜ僕を待ったのか推し量ることは出来なかったが、僕の本意でなくともこの寒空の下で待ちぼうけをさせたことを、少なからず僕は心苦しく思った。なので、すでに柳瀬結子によって掃除か済まされていた墓に手を合わせたあと、僕は彼女に従って、墓地から外れた国道沿いにあるレストランに入った。

 レストランの暖房は存分に稼働していた。凍えるような外気からは想像できない暖かさで、僕も柳瀬結子も、店内に入った途端に身体を火照らせ、上着を脱いだ。年中薄手のユニフォームで働くウェイトレスにとっては快適な室温だったかもしれないが、厳寒の冬風を逃れてきた我々は、その温度差に戸惑うばかりだった。

 柳瀬結子の誘いに従ったものの、彼女にご馳走になるようないわれもないので、自分の飲み物の代金は自分で払うと申し出たが、柳瀬結子は一向に引こうとしなかった。墓前で長く待たせたことを口にしたら、「私が勝手にしたことですから」と言って、柳瀬結子はテーブルに額をぶつけるのではないかというくらい頭を下げた。

 僕は彼女の申し出に従って、コーヒーを注文した。

「甘いものとか、食べませんか?」
「いえ、コーヒーだけで十分です」

 柳瀬結子ではない他の女性の申し出であれば、僕は調子に乗ってチーズケーキやチョコレートパフェなどを注文したかもしれない。だが、父親の心中相手かもしれない一回りは年上の女性に甘えるほど、僕は世間知らずではなかった。

「私、ホットケーキを頼みます。でも、恐らく全部は食べ切れないと思うの。少し手伝ってくださる?」
「それならば」

 僕が戸惑いながらそう言うと、柳瀬結子はテーブルの上に配置された呼び出しボタンを押した。そして、やがてやってきたウェイトレスに一つのホットケーキと二つのコーヒーを注文した。

 ハーフコートを脱いだ柳瀬結子は、カシミアが何かの上等な毛糸を使った白いタートルネックのセーターを着ていた。ふくよかだが、決して無駄な肉を宿していない身体の曲線を、そのセーターが強調していた。

 持っていた荷物は小さな木綿のトートバッグと長財布。そして折りたたみの小さなパイプ椅子だけだった。トートバッグには、恐らく墓に供える花を入れてきたのだろう。今はパイプ椅子を収めて、座ったソファの傍らに折り畳んだコートとともに置いてある。墓参りに出かける最小限の荷物だったが、全く貧相な印象はなく、むしろ、今までそれ以上の荷物を持ったことがないという育ちの良さを感じさせた。

 程なくして二つのコーヒーが運ばれてきた。柳瀬結子は、ウェイトレスが差し出した小さなカッブに密封されたミルクを押し返したが、それを僕が代わりに受け取った。二つのミルクと二つのスティックシュガーをコーヒーに注ぎ、ティースプーンでそれをかき回している僕の僕を眺めながら、「甘いのが好きなのね」と柳瀬結子は優しく言った。

「おかしいですか?」

 僕はカップの中で砂糖が十分に溶解していく様を想像しながら、少しだけ上目使いに柳瀬結子を見上げた。

 僕の目に、タートルネックのセーターに強調された胸のふくらみと、薄い口紅を塗った柳瀬結子の唇が映った。

「それでは、カフェ・オ・レになってしまうわ」「干渉しないでください」

 僕は敵意もなく、皮肉もなく、端的に柳瀬結子を突き放した。

 柳瀬結子は、自分の発言が慣れ慣れしかったのだと自覚し、意識的に口を真一文字に結んだ。

 遅れてホットケーキがテーブルに届けられると、柳瀬結子はもう一人分のフォークをウェイトレスに注文した。その後、熟練の技能を身に着けた外科医が手慣れたオペレーションを軽々とこなすように、無駄な動き一つせず、柳瀬結子は美しくホットケーキを切り分けた。

 柳瀬結子は切り分けるために使ったナイフとフォークを自分の方に向けて置いた。やがてウェイトレスがフォークを持参すると、柳瀬結子はそれを僕に差し出して、「召し上がれ」と言った。

 僕は柳瀬結子が僕を根気強く僕を待ち、こうしてレストランに誘った意図を、計りかねていた。そして、脳裏には、直の机の上に置き去りにしたままの本の青い表紙がちらついていた。

 柳瀬結子は亡くなった僕の父親の元部下で、僕は柳瀬結子の上司の二人目の息子という立場だった。その間に介在するのは父親という存在だけだったが、その父親ももういない。それなのに、柳瀬結子が僕を墓前で待ち、こうしてレストランなどに誘う理由を、僕は一つも探り当てることが出来なかった。

 ただ唯一心当たりがあるとすれば、柳瀬結子はやはり水族館の本を不躾に贈ってきた張本人であり、そのことに関して何かしらの意図を表明しようとしているのではないかということだけだった。僕は秋口に父親の墓前で柳瀬結子に会ってから、彼女が父親と心中を図った女なのではないかと疑っていた。なので、その忌まわしき人が、なぜそうしてまで僕に関わろうとするのか、僕には見当がつかなかった。

 父親の心中の相手は一命を取り留めたと聞いていたものの、警察は事件性がないために名前も素性も知らせてくれなかった。母親は半狂乱になって、相手の住まいや自分の夫との関係を教えてほしいと警察に懇願したが、警察も逆恨みによる二次的な事件が起こらないとも限らないと言って、そっけなく母親の申し出を退けたのだった。

 元来、異性との交友の影を見せなかった父親だったので、その父親を慕っていたという女性が命日でもない日に墓前に現れれば、その女が真面目な父親をそそのかして心中に導いたと想像しても、決して行きすぎこたとではなかったはずだ。

 だが、僕は僕なりに、そうした想像や、腹の底にタールのように張り付いた邪悪な感情が暴走しないように、自制していた。膨張した憶測に押しつぶされて自失してしまった母親を見てきたから、その二の舞にはなるまいと意固地になっていたのだろう。

 柳瀬結子が純粋な父親の部下で、彼女が言ったように父親が仕事の上での支えとなっていただけであったのだとしたら、僕の思い過ごしは行き場を失ってしまうし、仮に柳瀬結子が父親の心中の相手であったとしても、その後に直を失い、母が錯乱した中で少しずつ再生を始めた僕が、今更その心中相手に何を言えばいいのか見当もつかなかった。

 僕らの暮らしをぼろぼろにした人は、確かに恨めしい。だが、光の届かなかった海の底のまた底から少しずつ浮上しつつある僕の暮らしに、これ以上かかわらないでほしいという願いのほうが、はるかに上回っていた。

「もし、生きていたら、もうすぐ五十四になります」

 僕は柳瀬結子に差し出されたフォークで小さな三角形に切り取られたホットケーキの一片を取り上げ、頬張った。それを、甘ったるいコーヒーで喉に流し込んで、おもむろにそう言った。

「進さんね」
「はい。そして、直は二十七を迎えます」

 僕は手に持っていたコーヒーカップを静かにソーサーの上に置いて、そう言った。そして、蜂蜜をかけて黄金色に輝いているホットケーキに目をやった。おそらく中央の工場で事前に焼き色を付けて冷凍されたものを、全国に点在するチェーン店に運び、注文ごとに解凍して温めただけの代物だったのだろうが、結子によって作り出された歪みのない切れ目や、皿の縁に置かれたナイフとフォークの配置が絶妙な厳かさを醸し出していた。

「お兄さんのことを、名前で呼ぶのですね」
「七つも違えば、お兄ちゃんなどと呼ぶ方が恥ずかしい」
「進さんが直さんの父親になった歳と同じなんですね」
「よくご存知なのですね」
「進さんの歳のちょうど半分でしょ?それくらいの計算はできます」

 そう言って、柳瀬結子は少しはにかんだ。僕は、父親の素性を知ってのことかと勘ぐってしまったことを軽率だと思い、柳瀬結子から視線を反らしてコーヒーカップに手を伸ばした。

 柳瀬結子はテーブルに肘をついたまま、両手の指先でカップの縁を持ち、ソーサーからそれを少し浮かせて弄んでいた。その様は、漆黒の水面に反射したダウンライトの灯りをカップの内側でくるくると滑らせて遊んでいるようにも見えた。

 ほとんど面識のない女性に、父親のことを名で呼ばれることを、僕は未だに不快に感じていた。仕事と家庭しか知らないと思っていた父親の印象の中に、違う色の、そこに元からあるものと一切交わることこない性質を持った油が流入してきたような不快感だ。

 一度僕の印象の中に流入してしまえば、それを排除するためには特殊な薬剤と技法が必要で、僅かな手違いでもあれば、頭の中にある思い出を一掃してしまわなければならないように思えた。柳瀬結子は父親の名を口にするときに、どことなく嬉しそうな顔をした。以前に墓地で会ったときもそうであったと、僕は数ヶ月前の記憶の中にいた柳瀬結子の薄い笑顔を思い出していた。亡くなった父親の顔も直の顔も日を追うごとに薄れていくのに、秋口に出会った柳瀬結子の印象は、たった一度の出会いにもかかわらず、僕の脳裏に強く残っていた。

「私が進さんの下で働くようになった頃には、あなたは中学生になっていたかしら」
「あなたが、いつから父親の部下でいたのか、僕は知りません」

 僕がそう言うと、柳瀬結子は覚えてきたシナリオを暗唱するように、端的にその年を明言した。その年には、たしかに僕は中学生であった。

「それから二年後に、父親は失踪したのです」

 僕は父親の心中の相手ではないかと疑っている柳瀬結子を挑発するように、そう言った。

 柳瀬結子を見ると、生まれたばかりの猫の子や手のひらに舞い降りてきた雪の結晶を見つめるような愛おしさを含んだまなざしで、僕を見つめていた。その瞳の奥に密かな動揺もうかがえたが、それが心中の当事者であることを後ろめたく思っている動揺なのかどうかまでは分からなかった。

 僕はもしも僕の言葉に柳瀬結子が怯むようであれば、父親との関係について深く問い質そうと意気込んでいたが、彼女のその優しいまなざしに虚をつかれ、ただ俯いて褐色のコーヒーを啜ることしかできなかった。僕の困惑を察して、柳瀬結子が小さく笑ったような気がした。

 僕と柳瀬結子の間に置かれたホットケーキは、初めに僕が口にした一片だけが欠けたまま、寂しげにテーブルの上に取り残されていた。自分で注文したにもかかわらず、それから柳瀬結子がナイフとフォークを手に取ることはなかった。

「秋にお墓の前であなたに会ったとき、わたし、狼狽えていたでしょう?」
「どうだったか、よく覚えていません」

 そうは言ってみたが、本当は鮮明に覚えていた。たしかに彼女は狼狽えていた。

「進さんに二人の息子さんがいることは聞いていました。直さんとも会社で面識はありましたが、進さんとはどことなく違うタイプのように感じていました。そして、もう一人の息子さんであるあなたに会ってしまったことに、私は動揺しました。あなたを初めて見た時に、進さんの面影を思い出さずにいられなかったの」
「あまり、父親に似ているとは言われませんでした。恐らく、直に比べて出来が悪かったからでしょう」

 僕が俯き加減にそう言うと、柳瀬結子は白い歯を少しだけこぼして、小さく笑った。

 年齢は僕の歳の一回りは上であっただろうが、そうした柳瀬結子の何気ない一つ一つの仕草の中には、枯れることのない瑞々しい若さが湛えられているように感じた。

「いいえ、とてもよく似ています。あなたのことを勉強の出来だけで比べるような人に、あなたの本質を見抜くことなどできないと思う」
「そうかもしれませんが、だからといって、あなたに見抜けるとも思いません」

 反射的に、僕は柳瀬結子に対して、わりと強い口調でそう言った。
 
 すると、さっきまで彼女の佇まいを満たしていた柔らかな印象が消え、不意に風が止んで撓ることをやめた竹林のように、表情をなくした。

「そうですね。行きすぎた推察でした」
「推察ではありません。干渉です」

 些細な言葉のあやだと思えばいいものの、彼女の言動の一つ一つが僕の神経を逆撫でした。くだらない小競り合いが馬鹿馬鹿しくも思え、僕は唇を少しだけ歪めて笑った。

「そう、干渉。私はあなたのことをほとんど知らないし、あなたも私のことを知らない。でも、知りたいと思うことはいけないことでしょうか?進さんのことですら、私は何も知らなかった。優しい上司、慎ましい夫、頼もしい父親。ただ、それだけ。彼はきっと、そうした姿だけを外側に見せていれば、十分だと思っていたのだと思う」
「他に何を知る必要があるのですか?」
「わからない……」そう言って、柳瀬結子は顔を伏せた。「でも、知りたいの。知らないままでいる自分が、どこに帰ればいいのかよくわからない」
「『帰る』?どういう意味ですか?」

 目の前で俯いてしまった柳瀬結子を尻目に、僕は冷淡にそう吐き捨てた。

「私は……」

 そう口にした矢先に、柳瀬結子は喉元で堰き止められた言葉の続きを、飲み込んでしまった。

「あなたは、僕の父親に何を依存していたのですか?そもそも、何かを依存する必要があったのですか?」

 いつの間にか、僕の身体が震えていた。思考よりも先に、僕の身体が柳瀬結子に対する拒絶反応を示していた。柳瀬結子が父親の名を呼ぶたびに感じた、嫌な違和感だ。

 僕という器の中に満たされていた家族という湖に、どこからともなく柳瀬結子という異質の油が流入してきた。それは水面に広がり、沈むことも溶け込むこともしないで、ただそこに浮かんでいた。やがて差し込むはずの陽光は閉ざされ、光が届かなくなった湖底では水草が枯れ、魚たちは酸素を求めて苦しそうに喘ぎ始めていた。

 僕はいたたまれなくなり、冷めかけたコーヒーの残りを飲み干し、カップをソーサーに戻すのと同時にピーコートを手に取り、席から立ち上がった。

「気分を害されましたか?」

 柳瀬結子が顔を上げるなり、悲しそうな目をして僕を見上げた。

「コーヒー、ご馳走様でした」

 そう言って、僕はテーブルを離れ、店を出た。
 
 店内の暖房に加えて、柳瀬結子に対してやり場のない苛立ちを昂ぶらせたことで、冬空の下に立っても、しばらくピーコートを着る気になれなかった。

 柳瀬結子は果たして父親の心中の相手なのか。僅かな時間ではあったが、彼女と対峙して言葉を交わしているうちに、当初の疑念が揺らいでいった。その理由は定かではない。怒りとも憎しみとも区別のつかない息苦しい感情を弄びながら、青い水族館の本を送ってきたのも、本当は柳瀬結子以外の誰かなのだろうと、僕は思いを改め始めていた。

 僕自身の先入観が、柳瀬結子のことを父親をそそのかした悪女だと思い込ませようとしていただけなのかもしれないし、彼女の異質な品格があまりにも仕事一辺倒だった父親とは釣り合わないように思えたからかもしれない。あるいは、確証のない疑念を思い巡らせながら柳瀬結子と対峙することに、僕はただ、憔悴しただけなのかもしれない。いずれにせよ、酷く疲れた。こんなことならば、休暇など取らずに水族館で肉体労働に没頭している方が、ずっと気楽だった。

 それから僕は、墓地に停めたままにしておいたマウンテンバイクを取りに戻り、そのまま海岸に出た。

 こんな寒空でも、波乗りに勤しむ人たちがいた。僕は砂浜まで乗り入れたマウンテンバイクから降り、冬の日差しに照らされて少しだけ熱を含んだ砂の上に座った。

 スタンドを出したものの、その先が徐々に砂に埋まっていき、タイマーを仕掛けてあったかのように、マウンテンバイクが僕の背後で倒れた。

 人の世は浮世だ。決していいことばかりなんかじゃない。だからこそ、人は時にがむしゃらに足掻き、時にいろいろな物事を諦め、切り捨てながら生きるのだろう。赤ん坊が泣きながら生まれてくるのは、これから訪れる辛いことや悲しいことを悲観しているのだと聞いたことがある。その見解はあながち的外れでもないような気がした。

 僕も母親も、家族を立て続けに失った。だが、各々なんとか生きている。そこに強い意志や信念があろうとなかろうと、生きている。泣きながら生まれてきたのに、まだ辛いことを背負わなければならないのかとやり切れなくなったのが母親で、泣きながら生まれてきたのだから、次から次へと火の粉が降りかかって来ることも仕方のないことだと割り切ってしまったのが、僕だ。

 母親が後退的で、僕が前進的であると見る人もいるだろうが、決してそうではない。根底にある破滅思考は、僕も母親も変わりはない。僕らは二人とも行き先の見えない長い綱の上を渡っている。その綱の下は奈落の底だ。、僕はそれを見てしまっては足が竦むからと顔を上げていたのに、母親は奈落に落ちまいとするあまり、綱の下に大きく口を広げる闇に囚われ、身動きが取れなくなってしまった。ただ、それだけの違いに過ぎない。

 柳瀬結子が僕の父親のことをもっと知りたいと言った真意を、僕は測り知ることができなかった。彼女が僕と対峙し、僕らのことを知りたいと口走るたび、その言葉が嘘臭く感じられたからだ。ときには、馬鹿にされているような気さえした。柳瀬結子も僕らと同じように泣きながら生まれてきたのだろうが、彼女は辛いのかどうかも曖昧な体験しかしてこなかったのではないかと、僕は想像した。

 血を分けた僕でさえ、自殺した父親や直の気持ちが理解できなかったし、仏壇の前から離れようとせず、一歩も家から出なくなった母親の心のうちに触れることができないのだ。柳瀬結子と父親との関係がどうあったかは知らないが、束の間、父親の部下でいただけの彼女は、これから父親や直のことを一つ一つ知るたびに、逃れられない宿命を積み重ねていくだけだということを理解していないのだ。だから、闇雲に知りたがる。そんな柳瀬結子が次第に軽薄に見えてきて、僕はいつまでもテーブルを挟んで向き合っていられなくなり、店を出たのだった。

 海風が穏やかだったので、波は低かった。だが、日課のように海に出ているサーファーたちは、低いなりに波に乗り、時折、華麗なターンをして見せた。

 父親と直の墓参りをしてしまえば、その日のうちに僕がやるべきことなどなかった。せいぜい、夕方までに母親のための食材を買って帰り、冷蔵庫に収めればいいだけだった。だから、僕はずいぶんと日が傾くまで、砂浜の上でぼんやりとしていた。その間に、竹さんや佐藤かおりの面影か浮かんだ。ただ単なる同僚の竹さんや佐藤かおりの面影がどうして脳裏をよぎったのか、僕にはわからなかった。

 竹さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(20)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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