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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(55)

〈前回のあらすじ〉
 かおりは黒尾と直の深い関係を知り、直がマナティーに思いを寄せて人でいることをやめたことに涙した。その悲しみに促され、自分の腹の中に子供を宿していることを黒尾に告白したが、黒尾はどことなくかおりがこの旅に背負ってきた重荷を想像していたようだった。一度は性の衝動に任せて黒尾に抱きついたが、黒尾が勃起不全だとわかると、かおりはセックス依存症の自分と決別する意志を固めた。

55・野に咲く花とその蜜を得て花粉を運ぶ蜂のように

 清水に着いて、民宿に転がり込んだ矢先に眠りに落ちてしまったまことは、まだ日付を変えていない深夜に目を覚ました。深く眠ったせいか、自分がきちんと清水に向かっているのかとびくびくしながら移動してきた精神的な緊張も、長時間の電車に揺られて溜まった身体的な疲労も、随分と回復したような気がした。すると、みるみると猛烈な空腹感を、諒は感じた。

 女主人は腹が減ったらいくらか食べ物を用意できるとは言っていたが、さすがに深夜に食事の支度を頼むのは気が引けた。このまま、シャワーを浴びて眠ってしまおうかとも考えたが、やはり空腹には抗えず、入浴するために必要なタオルと着替えを脇に抱えて、僕は階下の食堂に向かった。

 三保の松原からの景観や駿河湾の海の幸を楽しむために観光に訪れる人は多かっただろう。しかし、この民宿はそうした観光客よりも、常連の釣り客や部活動の遠征でやってきた学生たちを相手にしている風情があった。廊下や階段は一般家庭と同じくらいの幅で、ロビーなどはなく、少し広い玄関があるだけだった。もちろん土産物を売るような売店もなかった。

 小さな食堂には明かりが灯っており、そっと覗くと、誰かが夜食を食べていた。暖簾をくぐって中に入ると、そこには夕刻に見かけた手足の長い自転車の女の子の姿があった。彼女はスウェットパンツにジャージのトップスという楽な格好で、アルミの器に入った鍋焼きうどんを食べていた。

「こんばんは」

 僕は彼女の視界にそっと入るようにして、声をかけた。

「ほんはんは」

 うっかり箸でうどんを口に運んでいるときに声をかけてしまったので、彼女は器に覆いかぶさるような姿勢のまま、目線だけ僕に向けてそう応えた。熱いうどんを啜りながら僕の挨拶に応えたので、少し間の抜けた返答になったが、彼女がそれに臆することはなかった。

 彼女は咀嚼したうどんを飲み込み、テーブルの上にあったティッシュペーパーの箱から一枚抜き取り、口元を拭った。そして、椅子に腰掛けたまま身体を僕の方に向けて、「どうぞ」と僕を自分のテーブルへと招いた。

「作り置きの煮物があるって聞いてたんだけど……」
「夕方見えたお客さんだよね。夕食、食べてなかったの?」
「疲れて眠ってしまったんです」
「そしたら、お腹が空いたでしょ。あるわよ」

 そう言って彼女が席を立とうとしたので、僕はそれを静止した。

「先に、食事を済ませてください」

 宿泊客にしては随分と勝手を知りすぎていたので、やはり彼女はこの宿の下宿人なのだと、僕は推察した。

「そう?じゃあ、そうさせてもらうわね。もし手間じゃなかったら、冷蔵庫の中にあなたのお膳があるから、適当に温めて食べてね」

 そう言って、彼女は視線でカウンターの奥にある白い冷蔵庫を示した。

 食堂にはテレビが置かれていたが、その画面には何も映されていなかった。その代わり、食器や調味料が置かれて食事をする場所としての機能を失ったカウンターの一角に置かれたラジカセから、静かにクラシックが流れていた。それが彼女の好みなのかどうかはわからなかったが、深夜の民宿の小さな食堂に、その音色は思いの外よく似合っていた。

 台所と厨房の間ぐらいの大きさの調理場に入り、冷蔵庫を開くと、きっちり一膳分の料理が、漆塗りのお盆に載せられ、収められていた。それを取り出すと、野菜炒めや筑前煮がそれぞれ器にラップフィルムに覆われていた。食事をせずに眠ってしまった僕のために、女主人が用意してくれていたものだとわかって、僕は嬉しくなった。

 それを持ってテーブルに戻ると、食事を終えた手足の長い女の子が、何も言わずに電子レンジで料理を温めてくれた。その間にテキパキと炊飯器からご飯をよそり、電子レンジのタイマーが鳴ると、中から野菜炒めを取り出して、器によそった味噌汁を同じ電子レンジで温め始めた。

「こんなもんかしらね」

 彼女はキャンバスに描いた風景画に最後の一筆を載せるように言い、鼻柱に皺を寄せて、愛嬌のある笑顔を僕に投げかけた。そして、食べ終えた鍋焼きうどんの器と箸を調理場で洗うと、「おやすみなさーい」と言って、食堂を出ていってしまった。その背中には、T大学の名がアルファベットで記されていて、その下には「TRACK CLUB」と付け加えられていた。

 空腹も手伝って、作り置きであっても女主人の料理は美味かった。つい一人でいたことに気が緩み、ご飯や味噌汁を無断でお替りしてしまった。

 腹が満たされた僕は、先に出ていった女の子に倣い、調理場に入り、食器や箸を洗った。そして、着替えとタオルを再び抱え、ラジカセの電源と食堂の電気を消して、やはり一般家庭と同じようなしつらえの浴場でシャワーを浴びた。

 シャワーを浴びながら、僕はかおりのことを考えていた。

 かおりと仲違いをして、自分やかおりに対する苛立ちや虚しさを引きずりながら、僕は一人でここまでやってきた。たった一日の出来事だというのに、黒尾とかおりと三人で和気あいあいとワンボックスカーで進んできた道のりが、もう何年も昔のことのように思えて、寂しくなった。

 かおりは自分の父親を「可哀想」だと言った。そして、僕のことも。そして、僕らのその憂いを、かおりは自らの肉体で鎮めようとしたのだ。

 また、かおりは僕と恋愛がしたいとも言った。それは彼女が自らの心を埋めるために言った虚言だったのだろうか。いや、僕はその言葉からだけでなく、かおりとつながった身体で彼女の愛を感じていた。ただ、生殖器が結合しただけのことではない。僕らは互いの心に欠けた部分を埋め合うように、心でつながっていたんだ。

 あれから二つ目の夜が過ぎようとしている。もしかして、身体の火照りを吐き出す先を手放したかおりは、今まで僕に向けていた欲情を、身近にいる黒尾に向けたかもしれない。でも、それは仕方のないことのように思えた。勝手に旅の一行から離脱したのは僕だったのだし、男の僕から見ても、黒尾の冷静さと大胆さは、魅力的だったのだから。

 気がつけば、僕は壁のフックに固定したシャワーヘッドから落ちてくる湯に打たれながら、自分のペニスを握っていた。勃起したそれを乱暴にしごいて、すぐに放出した。僕の身体から放出された邪念の塊は、瞬く間に排水口に飲み込まれていった。そして、また僕はペニスを握り、みるみると固くなったそれを、再びしごいた。僕の脳裏に、手足の長い女の子のすらりとした姿も浮かんでは消えたが、僕は決して彼女の面影では欲情しなかった。やはり、僕にはかおりが必要だった。

 僕はもう一度放出すると、身体を拭いて、新しい衣類に着替えた。そして、部屋に戻り、暖まった身体が冷えないうちに、布団にもぐり込んだ。

 翌日はT大に行き、ただしが生きていたときの足跡が残っていないか探るつもりだった。そこで、僕はもしかしたら思いがけない事実を知らされるかもしれない。あるいは、何一つ直の足跡を見つけられないで、肩を落とすかもしれない。僕はそんな不安と期待が入り混じった軽い興奮を抱えながら、瞼を閉じた。そして、その結果がどうであれ、僕はT大の用事を済ませたら、黒尾に電話をして僕の身勝手を詫び、かおりに会って、きちんと自分の思いを伝えなければならないと思っていた。

「僕はかおりじゃなきゃ、だめなんだ。野に咲く花とその蜜を得て花粉を運ぶ蜂のように、僕らはどちらが欠けてもだめで、二人だから生きていけるんだ」

 僕はかおりに、そう伝えたかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(56)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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