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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(64)

〈前回のあらすじ〉
 加奈子と並んで松林の遊歩道を歩いていた諒は、砂利の車道と交差したところで足を止めた。ふと足元を見ると、そこには諒の影があり、本能的に『兆し』を感じた。そこから海岸に出ると、警察官が何かの見分をしていた。その傍らに黒尾とかおり、そして柳瀬結子の姿を諒は見つけ、諒は驚愕したのだった。

64・大丈夫、まだ間に合ったから

「T大で、あの人が来たことを、教えられた?」

 ひとしきり泣くだけ泣いて、ようやく嗚咽を収めたかおりが、僕を見上げながら言った。

「うん。ただしの恩師から聞いた」
「諒くんがその恩師から聞いて話を、私たちは当然知らないけれど、あの人は知ってるんだよね?」
「恐らくね」
「その話は、諒くんにとっていい知らせだった?それとも、悪い知らせだった?」

 そう尋ねたところで、ようやくかおりがは僕から身体を離した。でも、僕の腰に回した腕は、そのままだった。

 僕が着ていたM65の胸元は、かおりの涙や鼻汁で濡れていた。同じように、かおりが残した温もりも、仄かにまだそこにあった。

「どちらとも言い難いけど、どうしても決めなければならないのなら、きっといい知らせだったんだろうな」
「そう……」かおりは短くそう言って背後の黒尾と柳瀬結子を振り返った。「ただ、どうやらあの人にとっては、悪い知らせだったようなの」
「どうして、わかるんだ?」
「入水したのよ」
「ニュースイ?」

 どこかで聞いたことのある単語だったが、僕はそれを頭の中でうまく漢字に変換できなかった。

「あの人、この海で死のうとしたの」

 訪れたことも、これから訪れることもない遠い国で、罪のない人たちが傲慢な大国からの空爆によって死んでいく悲劇を語るように、かおりは淡々とそう言った。

 風間教授から聞き出した学生当時の直のことと、海洋生物学の志を捨てながら福島で竹さんと共にマナティーの世話をしていた直のことをようやく拙い一本の糸で繋げたばかりだというのに、柳瀬結子が天女伝説が残る海岸で死のうとしたことをかおりから告げられ、僕は頭の中を大きなスプーンでかき混ぜられたように混乱した。

 案山子のように棒立ちになったまま、僕は呆然としていた。かおりも会いたくもない人に会い、見たくもない光景を見てしまったことに憤りを感じていたようで、スニーカーの中に入った砂を嫌い、苛立ちながらそれを脱いで、靴下のまま冷たい砂浜の上に立った。

「パトカーのサイレンが聞こえて、私たちが泊まっていた旅館のあたりでサイレンが止まったから黒尾さんと海岸へ飛び出したの。そしたら、砂浜に打ち上げられた女性を近所の人が介抱していて、慌てて加勢した黒尾さんがその人の顔を見て、息を飲んだの。当然よね。福島で会った人とこんなかたちで再会するなんて、誰も想像できないもの」

 黒尾はとうとう柳瀬結子の隣に座り、隣で膝を抱えたままの彼女に一方的に何かを話し続けながら、淡々と見分を続ける警察の一団を他人事のように眺めていた。

 かおりは黙ったままの僕がどのような反応をしているのか下から見上げたのだが、僕がまだ上の空だったので、彼女は背伸びをして僕の頬を両手で挟み、自分の方へぐいっと向けた。

「ねぇ、聞いて」

 かおりがあまりにも辛辣な面持ちでいたので、僕はそこで少しだけ自我を取り戻した。

「諒くんがお兄さんの恩師から聞いた話しを、あの人も聞いたのよね?」
「あぁ」

 さっき僕に尋ねた質問を、かおりは改めて繰り返した。僕は、ぼんやりと生返事をした。

「その後、あの人は海に入った。つまり、あの人は諒くんのお兄さんの自殺に、自分が関与していると感じたってことなんじゃない?」

 僕は向き合ったかおりの黒い瞳をじっと見つめた。その瞳は、やはり水族館のアザラシやアシカに似ていると、僕は改めて感心した。

「あの人は……」僕は僕の恋人を愛おしく見つめた。「直の恋人だったんだ」

(そうだ。あの人はオレの恋人で、オレの心の支えだった)

 砂浜から伸びて、防波堤で垂直に折れ曲がった僕の影が、悲しげに呟いた。

(でも、オレは彼女を守ることができなかった。マナティーを守れないようなオレが、たった一人の愛おしい女性を守れるはずなどないと思ってしまったんだ)

 僕は柳瀬結子が死を選んで入水したことを蔑みもしたが、それよりも入水はしたものの一命をとりとめたことに希望を感じでいた。

 父親と直と死別し、危うく母親までも失いかけた僕は、もう誰も失いたくないと思っていた。その思いは、旅の途中でかおりと離れ離れになってより強くなっていった。

 同じように、行方知れずになってしまった直の恋人も、願わくば逞しく生きていてほしいと切望していた。その柳瀬結子が、三保の海に身を投げたものの、直の後を追うようなことにならなくて良かったと、僕は心の底から思った。

(大丈夫、まだ間に合ったから)

 僕は心の中で影に言った。

 そして、僕は黒尾と柳瀬結子がいる場所に向かって、歩き出した。その後を両手にスニーカーを持ったかおりが、竹さんのあとをついてくるベーブやピッピのように、健気についてきた。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(65)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

 



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