オンライン指導について

今朝の一日のスタートダッシュは妙なものであった。朝起きて、さっと支度を済ませて家を出る。訳あって、走って電車に乗る。毎年この時期になると、たいていは半袖で過ごしているのだが、まだ今は「ヒートテック」を着ている。今年の三月のうちの何回かは「去年の今頃ってこんなに寒かったかしら」と思いながら、よく自宅の近くにあるスーパーに買い物に行ったものだった。妙だったのは、「汗」についてである。今朝は汗の出がこれまでよりも悪くなっていた。「あまりダッシュしない程度に走ったから、汗を掻かなかった」のか「ダッシュしても、もうその程度では汗が出ないような体質になってしまった」のか、その境目が今ではもう分らなくなってしまった。普段は、確かに走ると汗を掻いていた。汗を掻くという表現よりは、毛穴から何とかして汗が飛び出そうとしているのではないかと思ってしまうぐらい、これまでビッショリと汗を搔いてきた。汗を掻く量の「選手権」があるとしたら、私はその都道府県の代表選手の「選考会」には呼ばれるぐらいの自信があるが、私はそんなに汗に嫌われているのだろうか。「汗から逃げられる」という経験を長年してきたため、ついに「汗について学ぼう」と思い立ったときもある。昔、たまたま大学の生協の書店に立ち寄ったときには、幸運にも『汗はすごい』(菅屋潤壹著、ちくま新書)という本があった。すぐに手にとって購入し、読み終わった後にとても感銘を受けた思い出がある。それは大学一年の四月か五月だったが、そのときは「なんか面白そうだな」と思って軽い気持ちで買っただけだった。今では自宅の本棚に大事に並べてある。振り返ってみると「汗について学ぼうとする」よりもだいぶ前に「なんか面白そうだから汗の本を読む」という、時系列が逆転したような経緯になっていた。これは「いとあやしがりて、ゐたり」という表現がぴったりな気がする。
自宅に帰ってきて浴室に駆け込んでゆっくりしていたら、いつの間にか外は暗くなっていた。夜になって、数年前に家庭教師で指導を担当していたご家庭で教えてもらった「ジャガイモのグラタン」のレシピをアレンジして「かぼちゃとサツマイモのグラタン」を作る。最後はオーブンで焼くのだが、最近はオーブンで焼いた直後の拭き掃除に「ハマって」しまった。オーブンを焼いてしばらくの間は、機械の内側が230度ぐらいになっている。ここで発生している熱を利用して私は一人で愉快に、実に楽しく過ごしている。掃除用のきれいな雑巾を、よほど汚いときは少し汚れた雑巾を使って拭き掃除をするのである。雑巾を水で濡らして絞り、とても冷たい状態で直に内側を拭いていく。すると、だんだん冷たかった手が温かくなってきて、最終的には雑巾から湯気が出るくらい「アツアツ」な状態になってしまう。このときの手の感触がとても面白い。興味がある人はぜひ一度やってみてほしい。オーブンとレンジが一体になっているオーブンレンジを購入して(このオーブンレンジは、教わった「ジャガイモのグラタン」を作りたいという一心でなけなしのお金をはたいて購入したものである。)から毎年冬になると、私はこの「温まる術」を使ってなんとか寒さを凌いでいたのだが、一度だけオーブンで大失敗をしてしまったことがある。例のジャガイモのグラタンを作った直後に、「蓋をしたままレンジでチンできるプラスチック」の容器に作り置きをしておいたウインナーをどっさりと入れ、そのままレンジに切り替えて1分半ほど温めた。ピーッと音が鳴って容器をとり出そうとした瞬間に、グニャーっと変な音がして容器がなかなか動かなかった。改めて手に力を入れて思いっきり容器を掴んで持ち上げると、その容器は底の部分が熱で溶け、溶融状態になったまま糸を引いていたのである。底の部分だけがオーブンレンジの「床部分」に溶けて張り付き、側面と接している部分だけがビヨーンと固めの糸を引いていた。持ち上げても数センチしか持ち上げられず、そのままプラスチックは固まってしまった。当然、楽しみにしていたウインナーもタイタニックの犠牲者のように「お亡くなり」になってしまった。この時ばかりは本当に焦ったが、その後なんとか拭き掃除をしてきれいになった。意外とその「後始末」は簡単で、固まったプラスチックは一つにつながっており、一部分を手で引っ張ると、オーブンの底面からピヨーンと徐々に剝がれてきて、全体がつながった状態でそのままきれいにはがすことができた。とは言っても、いくつか気になる汚れがあり、その熱い状態のまま雑巾を濡らして拭き掃除をしていたら、先ほど述べたような面白い「熱の利用法」に偶然出会うことができたのである。その時は冬で、家の中がものすごく寒かったことや、近くにあった雑巾を冷たい水で濡らして(冬のアパートから出る水は本当に冷たい。)オーブンの熱を下げようとしていたことなど、本当にいくつかの偶然が重なって起こったことだが、このような怪我の功名的な瞬間が、生きているとたまに起こるというのがまさに「ありがたく、いとおかし」である。
いけない、オンライン指導について述べようとしていたのに、またこんな内輪の話をしてしまった。最初は軽い気持ちで書き始めるのだが、書いている途中で「ある閾値」を超えると、あとは「手」が勝手に書き始めるのである。そして、書いた後になって事後的に「自分はこういうことが書きたかったのだな」と自覚するのである。見直すと「いとわびしく、すさまじ」なものが多いのが、最近の自覚症状である。
切り替えて、ここからはオンライン指導について述べていきたい。
日本では、オンラインで行う授業・講演・セミナーなど(あとはオリンピックとか)が、数年前のコロナ渦で徐々に定着し始めた。ZOOMなどのデジタルツールも同時に使い人が多くなった。海外だと(例えばアメリカとか)その三年前ほどからZOOMの広告が流されたりしていたが、日本は「変化すること」に対してあまり能動的でないのかもしれない。
私も2020年のちょうどこのぐらいの時期から、徐々に指導をオンラインに切り替えるご家庭が多くなっていった。そのときには分からなかったが、オンラインでのやりとりでは「脳が同期しにくく」なっている。実際に(例えば東北大とかで)そのようなことが科学的に実証されているようだが、確かによく考えてみればそうである。ZOOMなどの画面で実際に見ているのは生身の人間ではない。スクリーンである。もっと詳しく言えば、デジタル画像における各画素の「リアルタイムの変化量の集合体」を視覚的に得ているだけである。よく、オンラインになると集中力が続かないと嘆く人がいるが、慣れていない人が「やりにくい」「上手くいかない」のは当然なのである。
ここからは、次世代を担う諸君にいくつか注意を述べておきたい。デジタル空間とどう向き合うかということについての簡単な「お話」である。
まず一つは、今のデジタル空間は「アテンション」へのインセンティブが極めて大きなっているということである。アテンション・エコノミーと言ってもいいが、簡単に言うと「他者の注意」を多く引きつければ引きつけるほど金が稼ぎやすいということである。だから、「質の悪い情報」が指数関数的に増えていくのは当然の帰結なのである。とにかく金銭をこちらに流してもらえれば、それでいい。自分がまだ会ったこともない人も含め、とにかくなるべく多くの他者から注意をこちらに(時には強引に)向け、アクセス数を稼いで収益の最大化を図ろうとするのは、経済合理性に合った行動のように見える。これだけネット上の発言が劣化し、その「場」に差し出されるコンテンツに情理が尽くされておらず、「とにかくエンゲージメントを高めればいい」と躍起になっている人が多いのは、そのようなメンタリティにマインドを支配されていることの表れであろう。だが、そのような人たちが集まっていったい何になるのであろうか。すでに述べたように、一方には「とにかくアクセスを集めればいい」「フォロワーが増えればいい」「(多少詐欺的なものであっても)とにかくコンテンツが売れればいい」と考える人たちがおり、もう一方には「とにかく最小のコストで最大のベネフィットが得られるようなコンテンツが欲しい」「無料で『有料級』な情報が欲しい」「無料で『(例えば)稼げる』情報が欲しい」と考える人がいる。そのようなマインドを持った者同士が集まっても、全く楽しくないし「豊か」とは言えないだろう。仮にそのようにしてそれぞれの持つ金銭の量が十分に満たされ、銀行口座の預金残高の桁数が増えるのを見ながら歪んだ笑みを浮かべ、さらなる自己利益の拡大のことしか考えないような人たちが集まったとしても、「つまらない」というたった五文字で片付いてしまう。少なくとも、私はそのような場には参加したくない。
ここ数年での、あまりのデジタル空間の虚しさに、そろそろ「生きる上で大事なことは、いかなる膨大な金銭を持ってしても手に入れることはできない」と気づく人が増えてくるような「転換期」に、今まさに差し掛かっているのではないかと思う今日この頃である。

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