キラキラ夜の湖面

“偉い人”からの“正しい言葉”に、心を折られそうになる私たちへ

保護者になると、当然ですが
保護者向けの学習会・講習会のお知らせなどに接する機会が、それまでよりも増えます。

子育てに自信がない。
不安がある。
漠然と「もう少し改善できたほうがいいんじゃないか」と思っている。
もしくは、
なんとなく予定があいていて、なんとなく興味を惹かれた。
など。

理由は様々あるかと思いますが、そうした機会への参加を決めたとします。
その際に共通しているのは
「今よりも、もっと“いい子育て”をしたい」という気持ちを持っている、ということだと思います。

そうした学習のできる機会が提供されているというのは、とてもありがたいことだとも思います。

けれどときに私たちは、そうした講演会・学習会に参加することで、
参加してしまったせいで、
思いもよらず、心折られるような経験を積んでしまうことがあります。

そんなリスクのある学習会に参加してきました。
「いい話が聞けたらラッキーだな」と思っての参加でしたが、散々でした。

「笑いあり、涙あり」
「嗚咽するお母さんたちも少なくない」
と聞いていて、「逆にやばそう」という気持ちと、「でもどんなもんなのか興味ある」という気持ちとの綱引きで、後者が勝ってしまったせいです。

しかし、会場の雰囲気を見るに
参加した多くの保護者さんたちの顔は晴れ晴れとしており、
涙の跡の見える人もいました。

「えっ、マジで?」ってなりました。

少なくない人にとって
涙するほど感動し、いい学びを得たと満足し、笑顔になれるような内容であっても、

・毒親、虐待親のもとで育った
・児童養護施設で育った
・片親のもとで育った
・親が犯罪者だった
・貧困家庭で育った
・障害のある家族がいた、もしくは、いる

というような場合、
まったく逆の経験となってしまう可能性があるのだと、あらためて感じました。

たとえば

「男性が稼いで女性が家を守る、そうできる社会であることが一番のしあわせ」と思える人、
特別養子縁組を成立させたNPOの職員が「将来障害が発現しようと、非行に走ろうと、親は常に子どもを愛し続け、支え続けなくてはならないこと。絶対に投げ出したりしてはいけないこと。養親にはその責務があることを、伝えました。」と記事を出した
とき、その言葉に不安を抱かなかった人、
子どもを愛せないと相談する親に対し「1日に7秒だけでいいから抱きしめてあげて」と答えた専門職員の対応について、疑問のない人。

であれば、たしかに非常に満足度の高いものだったろうと、振り返って思いました。

けれどもし、上にあげたような事例に対し
疑問や、恐怖や、危険性を感じた人がいたら。
自分の経験に照らし合わせて、違和感を持ったとしたら。
中でも
心の中にアラートが響き渡って、防御したいような心地になった人がいたら。

今日、私が聞いてきた話の内容を
項目としてシェアしてみたいと思います。

「こういう話をされて、気持ちが折られ、潰されるような心地を味わってしまう可能性があります」
「『断絶感がでかすぎる! やべぇ!』と感じる可能性があります」
という事例のシェアです。

こういうの、日常にあふれていますよね。
だから「別に今さら」って感じだと思います。
世間には、もっと幅広く・強く・多くの無理解が転がっているわけですし。

それでも、今日書いておきたいなと思ったのは
これが「保育園の主催した学習会で話された内容だったから」です。

やろうと思えばできる、程度には余裕のある人たちの慰安や慰撫のために
感動ポルノとして
より困難で、“できない”事例が消費されてしまった
と感じられる話だったからです。

現在、片親であったり、貧困であったりする家庭

かつて「虐待親・貧困家庭・“常識”のない家庭・施設で育った子どもや、親が犯罪者だった子ども」だった親
の存在が、まるでないものかのように扱われている
と感じられる話だったからです。

それが公立の、認可保育園という
児童福祉法の管轄する施設の中で話されたからです。

根本的に必要なのは
・こうした講演が行われないよう、各所で“意識”を高める
・こうした講演が行われないよう、チェックできる制度を“仕組み”として整える
こと
ですよね。

それはそれで、特に後者についてはやっていこうと思うのですが
そうした認識が広がるまでには、時間がかかります。

だから、個々人の生存戦略として
リスクを知って、心の準備をして挑むことで、少しでもショックを和らげられるようにしておきたい
と思ったのでした。

今日の記事は、タイトルのとおり

保護者向けの講演会・学習会で、“偉い人”からの“正しい言葉”に
心を折られそうになってしまう
私のような人へ、
私たちに向けて、書いています。

「こういうのを警戒したい気持ち、わかるよ!」
「そのアラートが正確でした、という事例を今日経験してきたよ、自信持って警戒してこっ!

と、言いたいがための記事です。

***


【“脅かし”をしてくる話】


「その子育てで大丈夫?」
「このままじゃ子どもが引きこもりになっちゃうかも?」
というような、恐怖心を煽り、脅かしてくるようなタイトルの場合は
最初から警戒しておいた方がいいです。

というか、最初から警戒している人、多いですよね。
たぶん98%くらい、それで正解なので、引き続き警戒しましょう。

でも“脅かし”には、いろいろな種類があります。

「誰にでも明日が用意されているわけではない。明日、自分の子どもが急に死んでしまうかもしれない」

「明日死んでしまうと思えば、今日、どんなことだってできるよね?」

というような
視点を変えて、思考を深めてみよう。
的な形がとられることもあります。
今日がそうでした。

言われていることは、間違いではないと思います。
そういう可能性を心の片隅において、今日を大事にすることは
間違いなく、大切なことでしょう。

でも、“子どもの死”を天秤にのせて、行動や意識の変容を迫るのは、卑怯です。

今日は、“子どもの死”を天秤にのせて
母親なら
・仕事よりも子どもを優先するべき(辞める、短時間勤務にする、休むなど)
・子どもが寝るまでは子どものための存在になりきるべき
という話をされました。

仕事は誰だってできる。
母親になれるのは自分だけ。
自分だけにしかできないような天職って言えるくらいなら続ければいいけれど、天職なら、一度辞めてもまた返ってくる(から結局は、辞めてもいい)。
というような話もありました。
究極を言えば、本当にその通りだと思います。
でも、その通りだからこそ、卑怯なんですよ。

究極を抱えたままでは、平穏な日常を過ごすのって、難しいじゃないですか。
私は、私だって、平穏な日常を過ごしたい。
過ごせなくなってしまうことは、そりゃあるけれど
せめてそれまでは、平穏を過ごさせて欲しいです。
平穏を目指させて欲しい。

なお、父親に対しては
「子どもが尊敬できるように、『いつも稼いできてくれてありがとう』『あなたのおかげで私たちは生活できているの』と言葉・態度にしてあらわしましょう」
と言っていました。
こういうダブルスタンダードは、普通に腹が立ちますね。

命や「死」を盾に脅してくる、というのは、毒親あるあるだと思います。
実際に目の前でそうした行動をとられた、という人もいるでしょう。
でも
命を盾に、何かを迫られること。
そのこと自体が不当です。
そのこと自体を、私たちは拒否していいのだと思いたいです。

もちろん拒否できない場面は、しかし、どこかしらにはあるでしょう。
っていうか、しばしばありました。
拒否できないときは仕方がないので、拒否できるときくらいは、できる限り拒否したいです。


【“社会適応”が正しい、としている話】


「親の役目は、子どもが社会適応できるように育てること」という話がありました。

でも、私たちはもう知っていますよね。
私たちと“社会”とは、適応する・される、という立場の固定されたものではないということ。
適応しないといけない(誰かが死んだり殺されたりするような)場面はたしかにある、
けど、
“社会”こそが私たちに適応すべきである、という場面だって、たくさんあります。

今日、事例として出されていたのは
・非正規雇用
・ひきこもり
・ニート
・不登校
・うつ病
でした。

これらはむしろ、社会こそが変わり(社会こそを変え)、どうにかしていくべき項目と思います。

「自己責任」などの、個人の努力を求めるような姿勢は
責任感の強さに見せかけた、むしろ、責任転嫁です。
私たちひとりひとりがつくっている“社会”の責任を、どこかの誰か・個人に負わせる、という行為です。
そして、そうやって負わせられるのは
大抵、生存基盤の脆弱な環境におかれている・おかれていた人たちです。

こういう言説には、のらないようにしたいです。


【“最近の親・子どもは打たれ弱い”という説】


“甘やかされて育ったから、心が弱い子に育つ”。そのせいでうつ病なんかになる“
っていう話。聞き流しましょう。

私たちの中には、打たれ弱いメンタルを持っている人、多いと思います。
疾患として抱いている人も、少なくないはず。

でもそれって、甘やかされたせいでそうなったんじゃない。
適切に尊重されず、粗雑に扱われ、奪われたり剥ぎ取られたりして、
それでもどうにか砕けて散ってしまう前に守って、
破損があっても守りきった、結果が今です。

「甘やかされてるから弱い」って言われるの、単純に辛いんですよね。違うのに。

心の耳をふさいで、「あーあーあーきこえないー!」ってして、守りましょう。


【「ダメな親からはダメな人間しか育たない」論】


“常識”がない家庭で育つと、“常識”のない子ども育つ。
そんな言葉がありました。

「子どもは親を見て育つから、親である私たちがしっかりしましょうね」という、𠮟咤激励としての言葉でした。

残酷な言葉ですよね。
碌でもない環境で生き抜いた先で、生き抜いた結果として、こんな言葉を聞かされたんじゃ、たまったもんじゃないです。

親の人生と子どもの人生は、別ものです。
嬉しいことに。かつ、残念なことに。

育て方でいろいろ決まってしまうけど、育てたように育つとは限らないです。
親がダメだと非常によくない影響を被ってしまうのは間違いないですが、
親がダメでも、子がダメになるとも限らないです。

「人は辛い経験をすれば、そのぶん優しくなれる」って言葉、ありますよね。
あれ、たぶん嘘です。
「あたえられた家庭環境に恵まれなかった分、自分でつくった家庭を大事にできる」って言葉、
あれもたぶん、嘘です。
嘘ではなくても、みんなに当てはまるようなものでは、全然ない。

辛い経験のせいで、自分にも他人にも意地悪にしかなれないこと、あるでしょう。
ダメ親のダメさはわかっても、正解がわからないから、
「これも本当はダメなんじゃないだろうか、それとも、自分が過敏になって気にしすぎているだけだろうか」って、グラグラしっぱなしです。
(子育てに正解なんて、そうそうないものとも聞くし)

過去の辛い経験が明るい未来を確定してくれる、なんてこと、全然ないんですよね。

でも、これ、逆の方向にも言える話なんだとも思います。

碌でもない親・生育環境しかなかったとしても、ダメ親に育てられたのだとしても、
子どもがダメになるとは限らない。
はず。

だから、まあ、
「ダメな親からはダメな人間しか育たない」
みたいな話を聞いてしまったときは
「ダメ親からも大丈夫な子どもは育つけど、親がダメだと子どもが苦労するのは間違いないから、できるだけ気をつけます、うぇーい♪」
って、
姿勢を正しつつ、半分くらいは流しつつで、距離を保ちたいです。


【「父親と母親は仲良しじゃなきゃいけない」説】


子どもにとっては、父親も母親も大事。
だから、仲良くしよう。
離婚は子どもの心に深刻な影響を与えます。
と、いうような話は、
聞き流すというか、無視でいいのだと思います。

それを信じられる環境なら、言われなくても、信じられてるでしょうし。

いない方がマシな親って、いるんですよね。よく知ってます。

あと
“仲良し”でい続けるためにこそ、家庭という関係性を解体する
っていう選択肢だって、普通にありますよね。

なお私は、私自身がもしダメ親だったなら
夫と子どもには、キッパリと私を捨てて欲しいです。


【“父親の威厳が必要”“父親が最後の砦”説】


「子どもは成長すると、強くなり、母親では手に負えないことがある。だから“怖い”“威厳のある”父親が必要」
「父親は、最後の砦」
説は、特に
「だから離婚はしない方がいい」
「だから父親がちゃんと子どもに尊敬されるよう、お母さんも態度を考えてあげて」
という話とセットの時には、聞き流したいです。

でも
男性の長時間労働が当たり前のように期待され、行われ、
男性が家庭生活内において存在感を持ちにくくなってしまっていることについては、大変なこととも思います。

そういうのも含め、父親がされるべき“尊敬”というのは
母親の言動どうこうで解消できる話ではなく、
父親自身の努力とか、
社会の仕組みとか、
そういうので、子どもが自発的に得られるようにするのが筋
と思います。

なお本日は
「片親の人は、一人できるって思ったからからそうしたのでしょう。ひとりで母親役、父親役、両方やればいいだけです」
って論もセットでした。これも、悪意ではなく、だからがんばってね〜みたいな、ちゃんと応援の意味での話ではあったのですが。

私には「自己責任なんだから自分でどうにかしろ」に近くも、聞こえてしまったのでした……。
無責任な自己責任論と親和性高いし、
やむをえない自由(DVとか)や死別は存在しないことになっているし、
どうしてこうなった、という感じでした。

片親だった人、現状、片親であることで不必要な苦労をしている人なんて
特に保育園には少なくないと思うのですけどね。


【「母親は家を“癒し”空間にするのが務め」論】


冒頭で話した通り、
“子どもの死”が天秤にかけられた状態での講演だったのですが、
家庭を、家族(夫や子)が癒される空間にするのが母親の役目、なのだそうです。
そのために母親は、
仕事を短時間勤務にしたり、休んだり、いっそのこと辞めたりするべき、という話がありました。

でも、仕事を減らす・辞めることが“子ども・家族のためになる”には、金が必要です。
だって、
子どもを生かし、育てるためには、金が必要なのですから。

特に、母子家庭の抱える困難としては必ず出てくる話題ですよね。
足りないのは金だけではなく、時間もだ、という話。

それに、母親が仕事をしている姿を子どもが見られるのは
なかなか悪くないことです
よね。

「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」
なんて言われて、また母親が言われているのを見て育って
女性の賃金がこれだけ低い社会に暮らしていると、特に。

また本日は、
「お母さんが仕事できているのは、子どもが辛いのを我慢してくれているから」
「お母さんは、お子さんにごめんね、と思う気持ちを忘れちゃいけない」
と、繰り返し言われました。

これを、うんうん、と大きく頷いて聞く母親が多い、という地獄。
こんな話をする講師を、保育園の先生が猛烈プッシュして選び呼んだのだ、という地獄。
そんな地獄を、今日私は生き抜きました。

保育園に通うことが、子どもにとって
辛かったり、不幸だったりする経験になってしまわないよう、
そういう環境をつくるのが、私たち大人の役目
です。

なお、もちろん、仕事してなくたっていいと思います。
っていうかそもそも、保育園は働く母親のため(だけ)の施設ではないですし。

(保育園は、園を必要としている子どものための、児童福祉法で定められた施設です)
(子どものための場所なのです)


【「男の子は難しいけど、単純で素直」という論】


下の子ができたら、という話のくだりで出てきた言葉です。

「女の子や、頭のいい一部の男の子は聞き分けがよく、大人だから大丈夫。でも普通の男の子は、単純で甘えん坊。下の子ができても、しっかり相手をしてあげてくださいね」

これはですね、
「女の子だって、“頭のいい”男の子だって、平等に相手をしてあげてください」
という話につきます。
1988年公開の映画『となりのトトロ』でさえ、
「サツキはしっかりものだから、なおさらかわいそう」って言われてたのに!

でも、
「ママにとって男の子を育てること」
って、男児がカブトムシに例えられたり、恋人視がどうとか子離れがますますどうとか、いろいろ言われるんですよね。

映画『おおかみこどもの雨と雪』でも、雨と雪との扱いの差、すごかったし。

どんな女の子でも、頭のいい男の子でも、“普通”じゃない男の子でも、相手したいです。


【「保育園や学校の先生は子どもにとって親代わり、文句を言わずに尊敬し、感謝しなさい」論】


文句を言わずに感謝する。
信頼して、すべて任せる。

とても無責任ですよね。
丸投げ、よくない。
保育園の先生も学校の先生も、人間なので、間違うことがあって当然です。

“人間扱いしない神聖視”は、相手にとってもよくないです。
過剰な負担をかけてしまうことにもなります。

っていうかこれ、まさに“母親”がよくやられるやつ……!

保育園の先生は保育のプロであって、家庭育児のプロではないです。
学校の先生は学校教育のプロであって、家庭教育のプロではないです。
(家庭教育のプロなんて、いないだろうけど)

保育士さんなら親役割が完璧にできる、なんてわけはないです。
親役割ができた(できる)人なら完璧に保育ができる、なんてわけがないのと、おそらくは同程度に。

(だから、保育支援員制度はダメなんですよ……)

それに、違う立場だからこそ
協力しあって、一緒に子どもの環境をつくっていく必要も、価値も、あるのだと思います。


【“感動ポルノ”が利用されていたら】


今日、利用されていた“感動ポルノ”は
・海外の、ご飯も食べられないような貧しい子ども
・生まれてすぐに亡くなってしまった子ども
・障害者、障害児
・被災者
でした。

不幸と苦労とは違います。
また、
誰かの不幸や苦労は、
自分の不幸や苦労の度合いを知るための尺度にはなりません。

“感動ポルノ”のエピソードに使われたような人生を生きる(もしくは生きられなかった)人たちの、その人生は
私たちが、私たちの生の「運の良さ」「しあわせさ」を実感するための材料にされていいようなものではありません。

たとえそれが、自分の子どもや自分の孫の人生だったとしても、です。
そんなものを材料にして、どうか、聞いた私たちに消費させないでください。


【“愛情至上主義”】


愛情が何よりも大事。
すべての問題をクリアするには、愛情が必要。
愛情がありさえすれば大丈夫(だから自信を持って)。

こういう話は、すべて削除してまわりたいです。
これも毒親持ちあるあるだと思うのですが、
愛情たっぷりに毒をまかれることって、すーーーごくたくさんありますよね。
「愛情がたくさんあること」って、なんの免罪にもならないです。
どれだけ愛情があっても、取り返せないものはたくさんあります。
たとえば子ども時代とか。

児童福祉論の教授が、かつてこんなことを言っていました。

子どもを虐待せずに育てるときに必要なのは、愛情ではなく、信頼関係。
子どもからの信頼を得られるような関係性を築くこと。
愛情の有無と、適切な養育であるかいなかは、別問題。

愛は地球を救わないし、愛で性感染症の予防はできないし、
愛はすべての問題を解消する特効薬ではありません。

愛している、と自信が持てないことも
愛されたことがなかった、という、そこはかとない惨めさも
致命傷にしないですむように。

“愛情”とは、適切な距離感でいたいです。
溺れず、けれど拒否も否定もしないでいいような、心地よい場所をつくりたい。


【自分の過去の講演が“いかに感動的だったか”が話され始めたら、感情のシャッターを8割閉めよう】


感動するかしないか、また聞いた話に価値があるかいなか、
それを決めるのは、その日に聞いている私たち自身です。
その日の聴者自身にしか決められないに決まってるじゃないですか。

他の場所で行われた講演(授業)で寄せられた、という
子どもたちからの感想が読み上げられました。
非行少年には、よく親とハグさせる、という話を聞きました。
どれだけの子どもが声をあげ、泣いたか、という話がされました。

それらは、すべて無意味ですよね。
だって、
授業でゲストに来てくれた相手であれば、子どもたちはお世辞を言って接待してあげることがあるし(そうでないと、評価や成績に響くことがあるから)、
そのハグが本当にその親子のためになったかはわからないし(私なら死にたくなる)、
声を上げ泣いた、その子の涙の価値も意味も、その子のためだけのものだし。

こういう、誰かの
気配りによる接待や、善意や、気持ちを利用されるシーンというのは、
命や尊厳をかけて接待し、信じては裏切られ、感情を利用されてきた立場としては
けっこう堪えるものですよね。

いつでも閉店ガラガラできるよう、準備しましょう。

もう、悪意すらない誰かに土足で入り込まれ、踏み荒らされるのを我慢する必要なんて、ないです。
相手はただの、私たちの生命を握ってなどいない、赤の他人なのですから。

***

同じ講演を聞いていた人がこの文章を読んだら
驚かれるかな、
ドン引きされるかな、
と、思いながら書きました。

だって見るからに、本当にすごく好評だったし、
とある数字(アンケートではなく、金のかかるタイプの、信用のおけるもの)にもそれが出ていたし、
グーグル先生におたずねしてみたら、その人の講演について、好評な感想しか出てこないし。

ひねくれて育って、ひねくれたまま歪んだ視点からの、
欠点探しみたいなことばっかりした結果でしかないんじゃないか、とかも思いました。

今でも、そうかもな、という気持ちも、なくもないです。
少なくとも
センシティブすぎて、先方にそんな意図はないのに、穿った聞き方をしすぎているだけ
の可能性は、どうしても捨てきれないし。

でも個人的には、とりあえず書いてみてよかったです。
ちょっと整理ができたので
次からは防御力を上げ、より警戒して、
そのぶん、より安心して、より冷静に臨める気がします。

今日だって、聞けてよかった、という話は、たくさんあったんです。
そういうのが、もっと素直に聞けて、素直に心に入ってこられるようになりたい。
(でもそうできないのは、別に私だけに原因がある話ってわけでもない)

話の中に
「たとえ親の年齢が何歳でも、子どもが2歳なら、親としては2歳でしかないの」
という言葉がありました。

その通りだと思います。

人間としての自分を再構築しはじめて、10年。
でも親の立場になってからは、私もまだ3年です。
またこうやって、ひとつずつ、保護者としての自分を構築していきたいです。

おしまい。

以上、全文無料でした。

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