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過去の自分を思い出すきっかけをつくる

一応今日でnoteを再開して、1週間が経つ。
以前のnoteにも書いたが、文字にして曲がりなりにも伝わるように明文化することは面倒だという気持ちは変わっていない。
その前提で書いたからなのか、なぜ1週間続いたのか考えてみる。

大きな理由は繰り返しになるが「書くことは話すことと同じ、話すことができれば書くことは大概できる」「話す行為それ自体に楽しさを感じないように、書くことにも楽しさは感じないものである。寧ろ書く前は面倒なものだ」という前提認識のおかげは大きい。
「話す相手がいないから、誰だか分からないひとと雑談しよう」というお気持ちで書き始める。

ハードルが下がったとしても明文化すること自体は面倒臭いわけで、それでも書こうと思えるのはなぜだか考えてみると5つぐらい理由がありそうだ。

  1. 考えたことを出さないと勿体ない

  2. 伝えようと明文化してみると意外に飛躍が多いことに気づける

  3. 過去の自分を思い出すきっかけにしたい

  4. 書いた文章を通して、自分のことを知ってもらいたい

  5. 反応をもらうとうれしい

全部詳細に書いていくと、面倒臭さ極まりないので1.3.4.に絞って深堀りしてみる。

考えたことを出さないと勿体ない

僕は考えごとが好きだ。よく情報処理の流れとして「インプット(入力)→処理→アウトプット(出力)」とされるが、その"処理"に当たる考えごとが好きだ。なんとなく仕入れた情報を具体化したり抽象化したりして、別の事象に当てはめられる仮説を立てること(≒アナロジー)が好きらしい。
そうすると、暇な時間があれば、安い大学ノートに問いやキーワードを書き並べて、つないで、また別の問いを立てて考えて...を繰り返して1日を過ごしてしまう。

だけど、他のひとはそのことを全然知らない。他のひとから自分を見ると、何を考えているか分からないし、考えているか考えていないかすら分からない。だから「休日何してるの?」とか聞かれてしまう。つまり、何もしてないように思われてしまうのだ。
これに気付いて「あ、純粋にもったいない」と思った。わたし自身が「おもしろい問いだな」とか「あぁそういう仮説もありなのか、興味深い」と感じているので、それが伝わらないのは「もったいない」と。だから、考えたことはちゃんと書いてみようと思ったのだ。

過去の自分を思い出すきっかけにしたい

昨日のメトロポリタン美術館展に行ったら肖像画が幾つか展示されていた。
カメラもまだ生まれてなかった時代、肖像画は貴族や資産家が画家に自分自身を描いてもらうことが主流だったと思うが、その目的はその時点での自分を記録しておき、数年数十年経った時に見返して当時を振り返るため、過去から現在までの自分の変化を楽しむためでもあったのではと感じた。

同じようにこうやってnoteを書いて残すことは、考えていることを記録するとともに、今からみれば「未来の自分」が今この瞬間の自分を振り返り、それまでの変化を楽しめたら面白いのでは?と思っている。

書いた文章を通して、自分のことを知ってもらいたい

未来の自分に伝えるのもそうだけど、未来に会って関わるひとにも書いておきたい。
リモートワークが当たり前になり、以前と比べると交わされる情報量が減ってしまっている。(詳しくは下記noteで書いた気がする)

だけど、まだリアルに戻るかというとその展望も薄く、このままオンラインでコミュニケーションを取ることが続くだろう。

そうした時に、少しでもこのnoteが届いて事前に自分の情報を知ってもらっていた方が話しやすいと思っている。
「知ってもらいたい」というのは、承認欲求だというのも否定はしないが、それよりも事前にちょっとでも読んでもらうことができたなら、話しやすいし同じ時間でも親しみやすさが違うんじゃないかなと思っている。

いつまで続くか分からないけれど、つらつらと思いつくままに、考えるままに書き続けていければと思っている。

いただいたサポートは、書籍代に消え、そして雨となって次のnoteになっていきます。