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人生とは『お祝い』ごとを探すこと

「日々の生活を豊かな気持ちで、幸福感を感じて人生を生きたい。」

そういった想いを持つ人は少なくないのではないでしょうか。かくいう私もそんな人間の一人で、どうしたら心おだやかに、そして充実した気持ちを持って毎日を過ごすことができるか?ということに興味があります。

最近は第二子誕生という自分の家族が増える出来事があったり、友人にもお祝いごとがあったりして、祝福の言葉をいただくことも受け取ることも何度かありました。

そのときに、こうした「お祝いする」という行為は「幸せ感」にとても関係が深いことなんじゃないだろうかということを感じました。

ここでは「お祝いする」という行為を通じて、人が幸せになるためのヒントを考えていきたいなと思います。

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「お祝い」とはなんなのか?

「おめでとう!」「ご多幸をお祈りします」「幸多からん事を」・・・

お祝いの表現は数多くありますが、そもそも私は「お祝い」という言葉自体になんともいえない魅力を感じます。字面も良いなと思うし、「お・い・わ・い」と声に出して読んでも嬉しい気持ちになるのです。

同じような意味で「言祝ぐ(ことほぐ)」という言葉もありますが、こちらもなんともいえない味わいがある言葉だなと思います。

もともと「祝う」という言葉は、「いわう(いはふ)」の「い」は、不吉なものを避け、吉事を招くことを表す「いむ(忌む・斎む)」と同源だそうです。
(出典:語源由来辞典)

また祝福するという意味を持つ英単語"bless"の語源も調べてみました。
(出典:語源英和辞典)

ゲルマン祖語 blothisona(血で清める)→blotha(血)+-isona(する)が語源。儀式でいけにえの血を祭壇にまいて清めたことから。blood(血)と同じ語源をもつ。

こうした言葉の語源から考えても、「祝う」という行為はある種の呪術的な文脈を持っているのではないかなと感じます。「呪術的」というとなんだかおどろおどろしいですが、ここでは「目に見えないものを対象として扱っているが、現実世界に影響を与える力を持っている」というニュアンスで使っています。

もちろん、お祝いのご馳走や、お祝いのプレゼントというものは目に見えますが、「お祝い」そのものを目にした人はないはずです。ここに「お祝い」という概念の奥深さがあるのではないでしょうか。

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言霊(コトダマ)信仰とお祝いについて

そういえば、我が家のお正月ではちょっと変わった風習があります。
お正月の三が日の朝は、梅と昆布締めを入れた緑茶を用意します。そして、家長が「おいわい」と一言いってからみんなでそれを飲むのです。

小さい頃はなんの気もなしにやっていた習慣ですが、大人になってから振り返ると先人の知恵が詰まった慣習なのかなとも思います。やっていることは単に少しアレンジを効かせた緑茶を飲むだけなのですが、「おいわい」という言葉を発して同じものを飲み食いすることで、新年を迎える心もちを整える効果があるのかもしれません。

万葉集にある、山上憶良(やまのうえのおくら)の和歌で詠まれているように、日本では「言霊の幸(さき)はふ国」という概念があります。

評論家である渡部昇一 氏はその著書「万葉集のこころ 日本語のこころ」で、日本の国の言霊の威力を以下のように分析しています。

祈ったので神がその祈りを聞き入れてくれて祈りの効果がある - それが普通の場合なのだが、祈りを言葉に出したこと自体が価値であるというのが日本の言霊である。もっとも、エスキモーなどでも呪いの言葉をかけられると、地面にひれ伏す習慣があるそうである。この場合も、おそらく日本の言霊に似た感じ方があるのであろう。
現代の言語学風に言えば、言語は伝達の手段と考えられる。したがって祈りの言葉でも、それは神に対してこっちの願いを伝達すべき手段ということになろう。そうして伝達された願いを神が受け入れれば、その祈りの効果があるということになる。
しかし日本の言霊思想によれば、祈りは伝達される必要がない。祈りの言葉はそれだけで有効なのである。大和言葉には言霊がやどっているのだから。発言したことそれ自体で祈りの目的は達せられていることになる。

書中では、万葉集に収録されている、歌によって言霊の威力が発現した古代人の例を紹介していますが、こういった感覚は実は現代においても通じるのではないかというのが私の考えです。

言霊信仰はオカルトなのか?

感謝を言葉にする重要性を説く人は様々なビジネス書や自己啓発本で目にすることは多いですが、お祝いの言葉を口に出すようにすすめている人はそこまで多くはないように思います。

「めでたい」と口にするだけで万事うまくいくというように、言霊信仰を真剣に信じているわけではありません。しかし「お祝い」の言葉を伝える/受け取ること自体に、何かしらの幸せを生み出すエネルギーがあるのではないかと思います。

「人は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しい気持ちになるのだ。」という有名なエピソードがありますが、同様のことが「祝う」という行為にも起こる可能性は高いでしょう。

「お祝いの言葉を発することによって、幸せ感を感じることができる」と断言はできないまでも、「幸せな気持ちでないと人を祝福できない」ということは明確に言えるのではないでしょうか。

家族や友人の誕生日、同僚が会社の仕事でうまくいった、子供が何か新しいことに挑戦して達成できた、、、など、人をお祝いするチャンスというものは、実は身の回りに溢れているものです。

人生における「不幸」を数えるよりも、人生における「お祝い」を探して生きることこそが、より人間らしく素晴らしい生き方なのかなと私は考えたりします。

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