これからの物語、今までの物語

前回更新してから1ヶ月ほどで、ずいぶんと世界が変わってしまった。

簡単に近況を書くと、今僕は全ての仕事がストップしてしまっていて(もともと、不定期なものと定期的なものと、両方でバランスを取っていたんだけど、どちらも止まってしまった)、完全な無職在宅状態になってまもなく1ヶ月ほどが過ぎようとしている。

すぐに生活に困るような状況ではないんだけど、やっぱり、入ってくるお金がほぼなく、出ていくお金ばかりの毎日というのは、ライフが削られていっている感じがして居心地が悪い。

とはいえ、医療や物流の最前線にいる人たち、こういう状況下でも出勤しないといけない人たち、営業自粛で損害が出ている業種の人たち、そうした人たちを助けようと声をあげ行動している人たち、等に比べたら、自分はこの緊急事態をぬるま湯の中で過ごしていると思う。

そのことへの漠然とした(多分感じる必要のない)罪悪感にじわじわと絞め殺されそうな感覚についても、そのうち一度言語化しておきたいなーと思っているんだけど、ちょっと今日はそこまでの気力がない。
「今、仮にも世の中に対して声を持っているべき表現者の端くれの一人として発するべき言葉」というのは他に山ほどあるということは重々承知の上で、今日のところは在宅時間のガス抜きに、ちょっと独り言を書くに留めさせてほしい。

* * *

「家にいる」以外に、今、大変な誰かのためにできることは、あるけれど多くはない。そんな日々をただ無為に溶かしていかないために、せめて自分のために使おうと最初に考えたことは、「とりあえず、脚本を書こう」だった。

家で時間がほぼ無限にある、という状況自体は、ずっと欲しくても手に入れられなかった、むしろ願ったり叶ったりなもので、どうせ何もできないなら今こそ、頭の中にあったいくつかのアイデアを形にして、動ける時が来たらすぐに動ける準備をしておこう、と思った。

実際、今年撮りたいと思っていた短編は、7〜8割がた脚本を形にするところまで行った。

他にも、完全な自費と自力では流石に無理かもしれないけど、企画コンペなりなんなりで方法を見つけて実現したいと思っている長編のネタもあるし、去年から友人に持ちかけられている別の短編の話もある。そう考えると、時間なんていくらあっても足りないくらいなのだ。

ただ、どんなに時間があってもどうにも思うようにスラスラと進んでいかないところがあって、それは単なる僕の怠惰だったり、世間の動向に精神をやられているというだけのことでもない気がしている。

なんというか、「これからの世界と、自分の作品の接点を定められない」という感じだ。

7〜8割書いた短編は、もともと「今年の夏」を舞台にしようとしていたもので、今年の東京の空気、みたいなものを、うまく作品に刻みたいと思っていた。日々刻一刻と世の中の色んな状況が変わっていっても、その都度設定やストーリーを調整しながら、「今しか作れないもの」としての最適解を探していた。…のだけど、そもそも今年の夏に向けて撮影の準備をすることも現実的ではなくなってきた。いつ撮影できるかもわからない中でこれ以上具体的に書き進めても意味がないかもな…と思い、手が止まってしまった。

他の作品のアイデアはそこまでリアルタイム性があるものではないけど、それでも、それはやはり「コロナ後の世界」(という表現が正しいのかすら現時点ではわからないけど)に向けて作ることになるので、ざっくりとした「現代劇」という程度の時代設定であっても、そこにどんな日常が描かれるべきなのかが、正直、わからない。居酒屋でぺちゃくちゃ喋ったり、手を繋いだり抱き合ったりする、そんな描写の意味するところが、多少なりとも変わってしまうかもしれない。

震災の頃に物語を作っていた人たちも、同じような問題にぶつかっていたのかもしれない。誰もが「震災を経た日本」という前提のもとに物語を作るのか、それともあえてそれを想起させないフィクションを描くのか、という問題を一度は考えていたような空気があった気がする。(単にセンセーショナルなトピックとして、ファッション的に震災を作品に絡めていたようなことも当時はあっただろうし、そういう風に感じられてしまうものは個人的にあまり好きではなかった。)今でも、すべての人にとっての震災が終わったわけではないけど、少なくともフィクションの世界においては、その存在を無視することは、今では難しくはない。

今回もそうなるのだろうか。
これは一過性の、やがて多くの人に日常が戻ってくる非日常なのか、それとも、大なり小なり、今後の日常の形を変えてしまうものなのか。変わるとしたら、それはどんな形をしているのか。

今はあまりにも世界がコロナ禍の空気に覆われていて、どんな作品を作るにしても、現代を舞台にする以上、その影響が作品に描かれていないのは、何だか繊細さを欠く嘘な気がする。でも、元々そんな要素なく構想していた作品であったとしたなら、長い目で見て振り返った時に、そうした要素は、同時代性に過剰反応してしまって本質を見失っているように見えてしまうかもしれない。
その辺りのバランスが難しいし、何ともまだ、定めきれない。

そんなことを考えながら、メモ帳と向き合って一進一退している。
(一人で考えるのは、そろそろ限界かもなあ。世の作り手たちは、今、どんなことを考えているのだろう。)

* * *

…そんな感じで「これからの物語」の形が定まらない一方で、「今までの物語」の存在にすごく支えられているなーと思う。

とりあえず、手が止まって世を憂いて悶々としてしまうのが一番時間の無駄だから、気分が乗らなくなったらとりあえず何か観よう!それも何かの糧!と割り切って、今まで溜まっていたドラマや映画を観まくっている。そこには僕らの知っている今までの世界があって、どれも面白くて、少なくともこれらの作品が、今ある形で存在してくれてよかったなと思う。

また、もっと直接的な意味でも、過去に自分の作ってきた作品が、ささやかながら今、唯一の収入をもたらしてくれていたりもする。

YouTubeに上げている短編も3月くらいから視聴数が増えてきているし(アナリティクスとかを観ていると、必ずしも観にきた人たちの求めていたものではなさそうなんだけど、それでも広告収入にはなる)、『パラレルワールド・シアター』も、ついに、シネマディスカバリーズさんでの配信が始まった。

今、パラ劇について何か言うのはなんとも難しいんだけど、視聴方法が増えたことで、どういう視点であっても、これからもこの作品を楽しんでくれる人が増えてくれたらいいなと思う。

そして、こうして自分の作品たちを「今までの物語」の一つとして世界の片隅に存在させることができたのは、改めて、とても幸運なことだったと思う。

* * *

この先、どうなるのかわからないけど、いつかまた「これからの物語」でも、一人でも多くの人を楽しませることができたらいいなと思う。



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