「こんなことをしている場合なのか」

新作を作ることにした。

以前のノートにも書いていた「今年の夏」を舞台にした短〜中編だ。

世の中の空気や状況とマッチしない気がして一度は手を止めていたのだけど、仕事もなく自宅に閉じ込められる日々に何か目的を設けないと狂いそう、という一心で、結局もう一度筆をとるに至った。そして5月の終わり頃、緊急事態宣言が解除される少し前に、初稿を書き上げることができた。

ひとまず「書き上げる」ことが目的で、実現性は半分くらいしか考えていなかったのだけど、やっぱり書いたからには撮りたいという気持ちが、当たり前だけど、湧いてきた。
その時点では、撮影が想定される8〜9月ごろがどんな状況になっているかわからなかった。描かれる世界と一致しているかもわからないし、そもそもとても撮影なんてできない状況に逆戻りしているかもしれない。
経済的にも、今までの蓄えなどもあって実現不可能ではないけれど、先行きに安心ができるわけではない。
でも、仕事も世の中も少しずつ動き出していく中、ここで様子を見て踏みとどまって後で「これ、やっぱできたな」となるのは嫌だったので、「できる」方に賭けて、まずは極力人に会わずにできることから、動き出すことにした。

まずはキャスト募集。
こんな時期でもあったし、「英語話せる人」というかなり門を狭める条件をつけていたにも関わらず、70人くらいの方がエントリーをしてくれた。

この1週間くらいは、Zoomを使ったリモートオーディションで、そのうち30人くらいの方に、画面越しにお会いさせて頂いた。
やっぱり直接会いたいな…生の感じを見たいな…とは思ってしまうのだけど、これも一つの経験にはなったと思う。

どんなに素敵な方にエントリー頂いても、今回のキャラクターに当てはまらない、という理由でご一緒できないのはいつも心苦しい。「またご縁があれば是非…!」という言葉は、定型文かもしれないけど、本心で言っている。

同時進行で、スタッフの方々にも声をかけている。
日数が多くないこともあって、今までの作品の中では一番きちんと対価を支払えているとは思う。こういう時期だからこそ「気持ちのやりとり」ではなく出来る限りちゃんと「経済活動」にしたいという思いもある(僕の経済力では限界はあるけど…)。
それでも個人の自主制作という、完膚なきまでに「不要不急」な案件であることに変わりはない。
快く乗ってくださった皆様には本当に、感謝しかない。
パラ劇から続投の方々、その後の別現場で出会った方や、古い縁からようやくご一緒できた方まで、過去最強のチームができつつあって、とてもワクワクしている。

もうすぐキャストもスケジュールも決定して、いよいよ本格始動、という段階に、近づいてきている。これ最高傑作できちゃうけどいいの?って感じにテンションが上がってきている。

それでもやっぱり、完璧には拭い去れない一つの言葉がある。


「こんなことをしている場合なのか」


最近、世間では発表される感染者の人数がまた増え始めたり、杜撰な対策からエンタメ界にクラスターが発生してしまったり、GoToキャンペーンの開始に様々な意見が飛び交っていたりして、「動き出す世の中」というものに対して必ずしも肯定的な空気があるわけではないのは感じている。今日も東京では、警戒レベルが引き上げられた。「もう大丈夫」には程遠い状況だ。

僕がやろうとしていることや、描こうとしている物語は、現実に対して少し楽観的すぎるのかもしれない。
本当はまだ「それどころではない」のかもしれない。


そもそも今回書いた物語は、もともとはコロナ禍より前から、オリンピックが行われる2020年の東京の片隅で起きる、ささやかな男女のオサレ小話、くらいのノリで構想していたものだった。
こんな事態になって、なんとか現実を反映させて成立する形を模索する過程を経たことで、より意義深い物語になったとは思っているけど、あくまでも「コロナ禍そのものについての物語」ではない。

そうしたかったのだ。
陰鬱な空気をまとう日々だからこそ、陰鬱じゃない物語を作りたかった。
「そういう話が成り立つ」ことが一つの希望のメッセージになりうると思ったし、何より「今僕が作りたい話」はそれだった。
それは世間の空気と関係のない、前作『パラレルワールド・シアター』に続くものとしてどんなことをやりたいか、というようなところの話でもある。

でも「コロナの話じゃないし」と言ってみても、2020年を舞台に物語を切り取るということは、きっと平時以上にその角度が問われるし、それゆえに、欠けている視点や、誰かの信じる「正しさ」との相違が見えやすくなるだろう。
自分なりに真摯に向き合ったつもりでも、今回の作品でピックアップする物語や登場人物の設定が、結果として「それどころではない」誰かの立場を軽んじる無関心の表明と受け取られてしまう、ということもあるかもしれない。そんなつもりはなかったとしても。

この半年間で政治や社会のトピックに触れることが多くなった(≒ツイッターばかり見てた)こともあって、そんなこともモヤモヤと考えてしまう。

でも「作りたい物語」と「自身の社会意識」みたいなものを完全に一致させられるほどに僕はまだ成熟していないし、そもそもそれを一致させることが成熟なのか、というのも、まだ考え中だ。
作りたい物語にとっていい塩梅を探る、ということ自体は、許されてほしいし、今、僕が描こうとしている物語が成り立つ場所も、それを描くことでポジティブな感情を届けられる人も、きっと存在するはずだと信じたい、などと思っている。


もっと現実的な問題の方も、もちろんある。
撮影現場や制作プロセスにおける感染対策については、決して軽視せずに取り組んでいかなければいけないと思っている。
安全より重要視されるべき作品なんてない。それは大前提だ。
どうしても難しいという状況になってしまったら、制作を諦める覚悟もしなければと思っている。

何か活動をしようとしたら、ゼロリスクなんてありえない。
それでも今自主映画を作るということに、大義名分なんかない。


…今日もまとまらない文章を書いてしまったかな。

「こんなことをしている場合なのか」
そう問い詰められたら、答えは「No」なのかもしれない。そうなんだろう、たぶん。

でもだからこそ、その問いかけが、前作で言うところの「何者でもない」のような、登場人物と作り手をつなぐキーワードになる気がしている。
作る決意をして動き出した以上は、その問いかけを燃料にするつもりで、振り返らずに進んでいきたいと思う。

今回は自意識と切り離した作品を作ることをちょっとした目標にしていたんだけど、まあやっぱり、多少は入ってきてしまうよね。
それが自主制作の醍醐味だ。

今動くことは、大いに間違っているかもしれない。
そんな漠然とした罪悪感を抱えながら、世間から見たら「不要不急」な、でもあなたの人生にとっては意味のある何かに対して慎重に動き出そうとしている、そういう人たちと共に歩める作品であり、プロジェクトになれたらいいなと思う。


そのためにも、安全第一で!
頑張ります。

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