MÅNGATA
今日はすこしかたくるしい文体になっちゃうんだけど、最近ニュースでよく取り上げられるLGBTQIAについて感じることを書いてみようと思う。
昔から感じていたんだけど人はなんで好きになる相手は異性でなければいけないのか。
私は同性を好きになったことはないし、どれだけ可愛い・綺麗と言われている女性を見ても「可愛い・綺麗な人だ」と感じるだけで、身近にいる同性に友情以上の好意を持ったこともない。
世の中で色々と言われているようだけど、
もう生きてればなんでもいいんじゃないかな。
日々生活をしてく中で、ちょっとしたことに幸せを感じたり、息抜きをしたくなったり、感情を共有してみたくなったりする相手の性別はあまり問題ない気がする。
わたしは純日本人なんだけど、同じ日本の友人と話していてゲイと言うワードを聞いてドン引きする子もいた。田舎で育ったからかな、そう言う反応を見るたびに「でもあなたには関係なくない?」と思っていた。
この感覚のズレはなんだろう、と考えてみたんだけど同性愛を受け入れやすい環境にいたのかもしれない。
近い身内に同性が好きなひとがいる。その方は自分を隠さずさらけ出して生活していてなんだかいいなと思う。
他にも、私は両親が離婚して3歳の頃から母親と過ごしていた。母には女性の親友(文中ではAちゃんと呼ぶことにする)がいた、もうずっと長い幼なじみらしい。私も母子家庭時代にたくさん遊んでもらった記憶がある。
ほどなくして母は再婚したんだけど、中学のころに離婚してからの幼少期を、今まであった出来事をしみじみ母と話したことがある。その時に「あのままだったらAがホンマにおとんになってたかもしれんわ」って言ってた。その時は流して聞いてたけど、今考えるとそう言うことか、って気付いてしまうこともある。
Aちゃんが同性が好きなのは物心ついた時から知っていたし、嫌悪感もない。母のその発言にも特に嫌悪がない、だって感情は自由だからね。今でもAちゃんと母は仲が良くて、恋話はたまに母づてできくこともある。
「A、あいつだけは放って置かれへんわ」って心配する声をよく聞くんだけど、説明するなら家族に対して感じる感覚があると思うんだけど、それと同じ雰囲気を近くで見ていてあの2人から感じる。
東京に上京して、ほら東京って人がたくさんいるじゃない、出会う数が多いと一人一人の扱いがぞんざいになることが多くて、そんな中で家族のような他人っていうのはとても素敵な存在なんだなあとひしひしと感じてきたところ。
MÅNGATA モーンガータ(スウェーデン語)…水面にうつった
道のように見える月明かりを示すことば。
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