稲穂のお地蔵様② 私信として/朝子君へ
稲穂のお地蔵様② 私信として/朝子君へ
1980年1月24日
感じとしては つきつけるようにいただいた‘宣言’とそして手紙で、その日一日 頭はそのことで占領されてしまいました。
訪れる人もない、電話ひとつかからぬ部屋の中で、外見はまさにぼけっとした姿の私でした。でも、頭は、ひる いただいた宣言と手紙のことで一杯です。
返答をせまられている というわけではないが、なにかいわねば自分の気持ちがすまない と思いつめたかっこうでした。といっても、何をどういったらいいのか ということが固まらず、それをいいあらわすことばも見つからないまま時がすぎました。
眠れぬときの為に用意してあるウイスキーをほんのちょっぴり飲み、リラックスをまちました。どうしたことか“朝”とおもって一度眼がさめ(さますに非ず)、2度めは、時計をみたら4時すこし前でした。
やけっぱちみたいな気持ちで『続・渾斉随筆』(註・『ぞく・こんさいずいひつ』会津八一著 1978年 中央公論)を1時間ばかりのぞいて、後は生理的休息を意識して、眼をつむって時をすごしました。
“試験ボイコット宣言”にいう、教授の姿は、私自身のものである。それが私のいつわらない気持ちです。弁明ができ、“ちがうゾ”といい切れることがあれば、私は堂々とそのことをいうでしょう。が、今はそれがない…。自分自身に対する悲哀感におそわれます。
つぎに あなたたちの勇気に圧倒されました。私は、昭和八年春“滝川事件”のとき、大学一年生でした。みんな学の自由を叫んで 教授たちにも働きかけ、仲間へも訴える、そういう運動が起こりました。私は 仲間のいつもうしろの方から そっと歩いていたかっこうでした。親しい仲間が 何人か警察にひっぱられ、学校も停学となりました。だが、私は無傷で卒業しました。
あのときのあの仲間と、自分とのちがいを、いまでも考えます。自分へのきびしさ-今、朝子さん、あなたが私に語ってくれた、そのきびしさを-欠いていたとおもいます。生きていくことの自信のなさがそのきびしさを稀釈してしまった といった方が、より真実に近いでしょう。
具体的にいえば、自己の能力への自信喪失、ひとひとり生きることのむづかしい時代のくらさ、インテリらしく かっこよく生きる欲望を捨てきれない見栄 などがその背景でした…。
話は飛躍するが、大学卒業を一年のばしてみたとて、生涯というロング・ランでみれば、それはどうということでない。それが論理としては正しいでしょう。といっても現実の問題となればそうばかりもいえないでしょう。だからこそ、私は“勇気”ということばをえらんだのです。
すべて、えらぶということの中に飛躍が内在するものです。
非論理が介在するものです。
今、あなたはその原体験を、大学生活の中での、多くの学生が絶対に(不正をしてでも…)避けたがることを媒介にして敢行しましたネ。
一言、(もっともらしく)いっておこう。この原体験は、人生の中で 決定的な瞬間にたちむかったとき とつぜん復活するでしょう。
ところで、坐っていると 敵とか味方とかの感じは消えるようなおもい といいますネ、そうでしょう。多くの学生は(もっとも 完全無視派が圧倒的多数)、あなたたちの態度の中に 清々しいものを見ているにちがいないとおもいます。それは あるおそれの思いがささえているのです。ひょっとしたら、自分の身替わりを あなたたちの中に見ているのかもしれません。
仲間を-教授たちをでなく-そう見ることが、正しいのではないでしょうか。そういう仲間への信頼感があってこそ、あなたたちの行為の清々しさが仲間に伝わるものとおもいます。
この行為が、いつの日にか、自分自身にも清々しかったとして、なんともいえぬ 内的よろこびと誇りをもたらしてくれるものです。
私は、昔、教壇を去れ とすすめられて 外見はそれに従った形をとりましたが、その時の自分の思い(-説明ぬきで申訳ないが)が、後々までも自分を誇らしく生きるささえになってくれたことを、今も、ときおり思い起します。
もちろん、その逆の原体験もあります。労働委員をしていて権力側にふらふら同調してしまって、その罪の意識を消すのに、後の労組書記生活20年かかりました。もちろんそれは 権力側に一貫して立たない という証拠を示さなければならないことでした。
しかし、それでも自分のアヤマチ(自分がそうおもったことにすぎないとしても)の思いはなかなか消えないものです。うしろめたさがつきまといます。
あのとき拒否の態度に出たら、今、どんなにさわやかにそれを語りえたか、と悔いを堪えて、今もときおりおもいます。
こんな話しか語れません。かえりみて他をいうような姿です。今のあなたたちに無関係のことかもしれません、が、私はやはり、自分にひきつけて見て話すこと、しかできませんし、この程度の話しかできません。
最後に、
ゼミのリポート(’78,’79年)、そして いただいた手紙同封します。記念にとっておいてください。
決して絶縁の意味でつきかえす ということではないのです。成長の記録、自分史の資料ということで大切にして下さい。私が何か書くとき、朝子君!あれもう一度見せて ということがあるかもしれないので、保存を約束して下さい。
その他の話は あと一年あるし、一年+αがあるかもしれないから、またゆっくり話しあおうではありませんか。
あなたの用法を拝借していえば、これは“ラブ・メッセージ”にもならない、むくつけきことばの数々でした。
それにしてもみんな体を大切に。祈 完遂。
1980.1.25
森 直弘
※私信をいただいた経緯は
前編「稲穂のお地蔵様①」をお読みいただけましたら幸いです。
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