-心配をかけよう、の日記-
いつも、なるたけ前向きに心がけていても。
会う人、会う人に、心配されて。
心配するなら、話し相手になってくれ。
と思うのだけども、話し相手には、なりたくない。
それがわたしさんの、友人さんや知人さんですかな。
と、まぁ、どうせ心配されてしまうなら、心配をかける記事を書こう、とこう考えたわけです。
そして、この記事ですな。
ミミズのような、わたしさん。
古い友人さんは、ひとり、またひとりと離れるばかり。
悲しみすら、そこには、感じられません。
長い月日を共に歩んできても、立ち去るときは、人はそれは無常なものです。
涙の一滴すら、こぼれ落ちることは、ありません。
何のために生きてるのか、そんなことは、知りません。
意味もないし、価値もない。
人生なんて、そんなもんです。
友情だの、愛情だの、そういうものさえ、綺麗事ばかりに、上塗りされてしまうし。
人は残酷で、哀しいものです。
大丈夫か、トーマスさん。
大丈夫です、心配をかけるための記事ですから。
そのための記事なので、わたしさんのこの記事は、心配をかけてなんぼの価値があります。
価値って、そういうことなんです。
理解のための行動、伝えるための行動。
それはね、奥さん。
きちんと伝えるために、怒鳴る日もあるし、踏み潰す日もあるんです。
怒鳴る必要はない、踏み潰す必要はない。
そういうあなたさんは、わたしさんの日常を、ご存知ないのですかな。
怒鳴ることで、手を止める人がいる。
踏み潰すことで、足を止める人がいる。
そのことの意味を、ご存知ありませんかな。
手を止めなければ、足を止めなければ、さて、どうなるでしょうね。
そんなことを、わたしさんの口から、わざわざ言わせないでくださいね。
そして、がんがん、わたしさんを心配してくださいね。
明日も元気に、メンタルヘルス、そして、サイコパス。
それでは、よき秋の夜長を。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?