-大嘘平八郎(仮)-
今日は抜けるような青空でした。
嘘はいけないよね。
水戸も曇りだし、都内も雨でした。
わたしの今日の行動を知っている人からしたら、大嘘平八郎です。
嘘吉松左衛門です。
でも、わたしが青空の下にいる可能性を考慮している人からしたら、あまり嘘とは思われないかもしれない。
例えば、わたしが中学生くらいのとき、俺は間違いなく近いうちギターが弾けるようになるし、きちんと作曲して世に発表するよ、と話していたら、どこかで大嘘平八郎が横目に見ていたかもしれないし、見ていないかもしれない。
でも、それも結果論なので、今となっては、当時の友人たちも、きっとトーマスくん(仮)は、すぐにでもギターが弾けるようになると思っていたし、いつか世に作品を発表する日が来ると思っていたよ、と嘘松門左衛門みたいなことを抜かしやがるかと思われます。
そして、今、また、そういう局面が訪れております。
勘の良い方は、ピンと来てるかと思います。
小説の話です。
結局のところ、それが、真実与太郎だとしても、周りの人も、友人や知人、職場で一緒になった方なども、トーマスくん(仮)には、期待してるよ、と話してくれます。
どうにも、そのひとつひとつが、嘘松小平次のように感じてしまう、わたしの心は、少しばかり汚れておるのでしょうか。
或いは、ほんとうに、びっくりするくらいほんとうに、期待してくれている方も、中には、きちんといることも、もちろん、知ってます。
誰とは言いません、どこの方とも言いません。
でも、多分、わたしの想像している以上に、過度な期待をしてくれている方のおられることは、十二分に把握しております。
そして、何なら、その期待を、既にわたしの想像以上だというのに、更に上乗せしてやろう、みたいな小汚いわたしさん(仮)であります。
或いは、こんな戯れ言のすべてが、わたしの嘘林倫太郎みたいなものかもしれません。
嘘はよくないよ。
嘘はよくないですよ。
そう、思います。
わたしも、そう思います。
だから、わたしは嘘はつくまいと思います。
正直に話すなら、わたしが作家たらんと生きることができるか、否か。
それは、半々くらいでは、と思います。
世に出るには、才能の不足があるかもしれないし、環境などの都合で、世に出る前に、筆を折らざるを得ない日が来るかもわかりません。
少なくとも、わたし自身は、そういう可能性を考慮した上で、今、こうして小説や短歌と向き合っています。
大嘘平八郎の名が廃るかもしれない。
もっと、どぎつい嘘をつくべきかもしれない。
しかし、それとて、嘘が真実になり、真実が嘘になる、そんなことは、日常茶飯事です。
わたしが、或いは、作家たらんとして。
そのとき、あぁ、トーマスくん(仮)なら、きっとやってくれると思っていたよ、そう話してくれる人も、おられるかもしれません。
そして、筆を折るとき、その日、それでも、納得してくれるか、否か。
しかし、それとて、嘘松と真実太郎のあいだを行き来する、日々の徒然のようなもの。
だとしたら、わたしは。
きっと、小さな物語を書けること。
物語、というのは、現実に対する、ある種の、嘘、です。
だからこそ、わたしは、その、嘘、の物語を。
書ける物語を書こうと思う。
誰かの応援、があるかしら、わからない。
誰かの支援、があるかしら、わかりません。
けれども、わたしが、(多分、こうして、この記事を書くことで、その期待値を上げている自覚くらいはある)、その期待値に対して。
誠実な人か、わからない。
でも、おそらくは。
わたしが、明日とか、明後日とか。
そういう、割と近い日に。
挫けそうな夜とか、昼とかに。
こっそり、こういう記事を読んでくれて、心のなかで想ってくれる、誰かの声を。
わたしは、その声を、しっかりと聞いちまうんです。
アンチの野次ばかりが飛ぶ、青空の下で。
そんなささやかな声を、わたしは、きちんと聞いてしまうのです。
そして、こう思うでしょう。
あぁ、期待値が重いなあ。(www..)
そして、その重荷を。
苦い言葉の端々として。
作品に、乗せたり、乗せなかったり。
きっと、約束してくださいね。
トーマスくん(仮)は、そういう人だと思っていたよ。
前々から、そう思ってたんだよね。
やっぱりトーマスくん(仮)は、文学的な人だね。
と、きっと、微笑って話してくださいね。
それでは、また嘘松の花の咲き乱れる夜に。
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