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「市場原理主義は、成長の邪魔だ」

前の記事の続きです。

かつての日本は、自由と市場原理を愛する国でした。

 しかし、明治維新から50年以上経過した1920年代から30年代に移り変わる当時、日本国の企業組織も近代化・肥大化しており、経済の仕組みも徐々に変わってきていました。

近代化に伴う企業の変化

近代的な企業組織には大きく分けて「3つの関係者」が存在します。

1.所有者 2.経営者 3.従業員

の三者です。所有者とは株主のことですね。

 小さな企業、特に零細企業なら、労働も所有も経営も全部一人が兼ねて仕事をしているかもしれません。無限に競争相手が存在する状況を仮定する古典派経済学では、この3つのステークホルダーを分けて考えず、一致していると考えます。もちろん、零細企業ばかりの社会ならばこの三者の対立ということは起き得ないでしょう。しかしながら企業規模が大きくなってくると一人で仕事はできないし、資金調達も一人では困難になってきます。

 そうした過程で株式会社という仕組みが生まれました。所有と経営、労働の分離が生まれてきます。社会主義の視点からは資本家・労働者という二項対立がよく用いられますが、今回はそこに経営者を加えた三者を分けて考えます。なぜなら、大規模な企業では株主と経営者は本質的な目的や利害が異なるということが自然だからです。

市場シェアより、手っ取り早い利益がほしい株主

 1920年代の日本においても、近代化と大資本の登場により所有と経営の分離や労働運動が進展してきて、労働者、企業経営者、株主はそれぞれ異なる目的、異なる利益を求める姿勢が目立ってきていました。労働者は高い賃金を求め業界全体に影響を及ぼすストライキを度々引き起こし、その裏で株主たちは再投資ではなく高い配当と短期的な利潤を求める姿勢を強めていました。

「成長と権力拡大」を望む経営者

 一方で、経営者はどう考えるでしょう。多くの経営者は「成長」こそを最も重視するのではないでしょうか。もちろん、利潤も大事でしょう。でも同時に、利益を一時の行楽に使ってしまったら成長できないことを知っています。単に配当に回すのではなく、再投資の原資とすることで、時間をかけて人や知的財産、設備、といったものへの投資を通じ企業規模を拡大し、ライバルに打ち勝つことで市場占有率を高めていこうとします。成長する企業の経営者は特に、経営者は自らの裁量で動かせる従業員、機械、工場といった「資本」を拡大させることに価値を見出します。資本の拡大とは、まさに自らの権力拡大そのものだからです。このように、短期的な利益と長期的な成長とは背反する訳ですね。

所有と経営の分離が招いた「目的の分裂」

 前回の記事で述べたように、1920年代の企業は利潤の半分以上を配当に回しており、非常に株主の意向が強い社会でした。実際の経営にタッチしていない株主としては、成長よりも短期的な利益と配当金のほうが大事なわけです。しかも、それに歯向かう実際の企業経営に関わる人はすぐにクビになってしまいます。そのため1920年代の日本は、企業が落ち着いて大規模な投資を行うことが難しい社会になってしまっていました。投資する金があるならオレによこせと言うわけです。

地獄を経験した大恐慌と、ソ連の「独り勝ち」

 そんな株主資本主義の日本を襲ったのが1929年に起きた世界恐慌です。その影響は想像以上に甚大で、特に当時の首相浜口雄幸がそんな中まさかの金本位制復帰・緊縮財政断行という政策判断を行い、日本はインフレ率マイナス10%という、まさに人災としか言えない深刻な不況の中にいました。当時の経済学では、「金本位制下ならば緊縮財政を行うことで国産品の価格が下がれば国際競争力も増加し、輸出が増えて再び豊かになるだろう…」というような理論(金本位制の自動調整作用)が信じられていた為です。

 しかしそんなことは実際には起きず、ものすごいデフレ・スパイラルが止まることはありませんでした。倒産や失業が増大し、農民や中小企業者といった中間層がまさに痛みを負う格好となっていました。

 そんな中で独り勝ちしていたのがソ連です。その中にはプロパガンダも結構入っていたとは思いますが、1930年代初頭、各国の不況の中でソ連だけは脇目も触らずに工業化を進めることを可能とし、大きな経済成長を遂げていることは多くの国の人の羨望を浴びました。

 最終的に日本は高橋是清の積極財政により恐慌からの復活を遂げるのですが、この時点で古典的な自由主義というものへの信頼はもはや無くなり、経済成長と失業率低下のためには、政府の政策介入が必要だという考えが世界的に広まっていきます。

"市場原理主義"の脱却を試みる「革新官僚」の出現

 不況が終わる中、株主に権力が偏る自由市場経済からの脱却を目指したのが日本の「革新官僚」です。美濃部洋次、岸信介などがその代表格と言えるでしょう。

 1920年、農商務省に入賞した岸は、世界中を飛び回り各国の経済状況を調査する中でアメリカの経営者中心の資本主義の強大さと出会い、圧倒されたといいます。そしてドイツに渡った際は、不況の中で「産業合理化運動」をするドイツの政策を目撃しました。当時のドイツは丁度一次大戦後のインフレが収束した一方、過剰設備・不良設備と同時に企業競争力の低下が深刻な問題として顕在化していました。これに対し、ドイツは国を挙げて化学・重工業といった産業に大規模な投資を行うことで経済成長を遂げていたのです。IGファルベン合同製鋼などがその例です。生産の標準化や規格化も進み、生産コストも大きく下がりました。

余談ですが、現代における経産省の半導体産業への取り組みがまさにこの産業合理化政策の例です。規模の経済が強く働く大規模な工業生産というのは生産すれば生産するほどコストが下がる一方、あまりにも大規模な投資を必要とするゆえに国家的に行わなければリスクが取れないのです。一方で一度開発に成功してしまえば、スケールメリットにより工業力において他国より圧倒的優位に立てます。放任主義の自由市場経済では重工業力は発展しないのです。


 また、ドイツでは企業経営における企業者と労働者の協働を重視しており、株主が短期的な利益を一方的に求めるのを抑止しながら、また経営において労働者の声を取り入れるなど企業経営における「協調の精神」を重視しています。その例として1920年にドイツは「経営協議会法」を成立させ、労働者の経営参加を実現しています。マルクス経済学のような捉え方が非常に一般的となった今日、経済を労働者vs産業資本家というようなシンプルな対立関係として捉えるのは常識となっていますが、必ずしもそうではないことを岸はドイツへの訪問で見ているのですね。

 ちなみに、ポスト・ケインジアンと呼ばれる経済学派の代表的経済学者マルク・ラヴォアは、自らの著書においてカレツキの理論を引き合いに「労働者と資本家の対立が、かならずしも資本主義経済の必要条件とはならない」とし、「労使協調が経済全体に有益となる可能性」を示しています。現代においては理論的にも労使協調による経済成長の道筋は示されているのです。

 調査を終え、ドイツの姿を見て帰国した岸は

『ドイツでは日本と同じように資源がいないのに、発達した技術と、科学的管理によって経済の発展を図ろうとしていた。私は「ああ、日本の行く道はこれだ」と確信した』  岸信介証言録 p52
 従来の通りの自由競争、協調なき対立主義では以上のやうな具体的方策を行つても真の合理化ではないのである。又従来の如き手段を選ばざる儲け主義の経営も合理化でない。協調主義は企業者同志の問題ではなく、生産者と販売業者と消費者相互の間にも行はねばならぬ。資本家と労働者との間にも行はねばならぬ。・・・之れを要するに、産業合理化と云ふことは結局一の国民経済を経済単位として其の繁栄を期するがために互いに協調してやつて行かうとする運動に他ならないのである 『産業合理化』第 4 輯

といったことを述べています。そして世界恐慌のさなかの1930年、商工省はこの時の岸のドイツ調査の報告書をもとに「産業合理局」を設置します。

ここから日本は本格的に「市場原理主義からの脱却」に取り組むのです。


参考

 佐藤健志 [2014]「革新官僚・岸信介の思想と行動」経営情報研究 第21巻 第2号

山口 尚美[2015]「企業統治の連続性に関する日独比較」 一橋大学


リチャード・ヴェルナー 「円の支配者」  草思社

中野剛志「日本経済学新論」 ちくま新書

マルク・ラヴォア ポストケインズ派経済学入門 ナカニシヤ出版



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