合理主義(社会主義・市場原理主義)の限界

 資本主義経済の発達が進んだ今、我々は大きな壁にぶつかっています。壁とは

・需要不足による経済停滞

・格差の拡大

・蔓延する自己責任主義

・孤独

と言ったものが挙げられるでしょう。

このような壁はなぜできたのでしょうか。どうしたら壁は取り払われるのでしょうか。

 この解は、ワグナーに代表されるドイツの歴史派経済学にひとつ求められるものがあると思います。

ワグナーの社会政策

  ワグナーは、当時主流だったアダム・スミス流の個人主義的・自由主義的な「小さな政府」論的財政学から、国民の連帯(ナショナリズム)を通じた福祉国家的な「大きな政府」論的財政学へと財政学の潮流の根本的方向転換をすべきだと主張しました。

 彼らの思想はドイツ歴史派経済学として現在も地位を築いており、日本において有名なところでは神野直彦という人が挙げられます。彼らの社会政策の特徴は、自らの理論を自由放任を是とする経済自由主義と抜本的な社会改革を求める社会主義の中間に位置づけるものとしています。

市場というのは競争原理に基づいて動いています。企業はお金儲けをしようと一生懸命競争します。一方、社会の構成員を支える国家財政は、お金儲けをしてはいけません。競争原理ではなく協力原理で運営されるべきであり、それによってはじめて両者のバランスを取ることが出来るのです。

そこからは、財政に競争原理を持ち込んだ「ふるさと納税」のような制度は論外であるということがわかるわけです。

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リヒャルト・ワグナー   イラスト:キリヌケ成層圏様

「個人の自由」と「社会の規律」

 どんな社会にも、個人の自由と、個人の好き勝手を許さない規律があります。池田潔は、"自由と規律"の中で「最も規律があるところに自由があり、最も自由なところに規律がある」と述べています。規律のない自由とは、放縦そのもので無価値です。当たり前ですが、個人の権利というのは他者の権利を尊重する義務の上に成り立っているわけです。

しかし一方で、「誰かが設計した完璧な規律」というものは無く、縛られた状態で人間は力を発揮できないのも事実です。ですから、個人の自由による不備を社会政策によってジョジョに「改良」していくのが良いだろうというように私自身は考えています。自由放任の市場原理主義と社会主義のいずれかに偏重してはなりません。

市場原理主義と社会主義両者が信奉する「個人主義」

実は、社会主義と自由主義は個人主義という点で同根です。

 個人主義とは、個人の諸権利を増やすことこそ第一とする考え方です。言い 方を変えると「国家は個人のためにある」というものです。天賦人権説といい、まず神が個人に権利を与え、それを担保するために国家という道具があるという思想。典型的なのは経済学です。古典的な経済学は私有財産権を擁護し、国家による介入を否定します。

市場原理主義と社会主義が好む「合理主義的改革」

こういった自然法と天賦人権説的に基づく個人主義の思想の根底にあるのは合理主義、すなわち「人間の理性こそ絶対」とする考え方です。その理性が発見した「原理」に基づいて現実世界を理想的なものに改造する、というのが合理主義者の思想です。現実の日本が「原理」に基づいていないのであれば、それを破壊して作り変えよう。それこそが合理主義者の考え方です。

・・・どこかで聞いたことありますよね。

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労働者個人のため国家社会を改造する社会主義

 一方で、社会主義はどうでしょうか。苛烈な自由競争で虐げられてきた労働者を鼓舞し、資本家や企業経営者との対立関係を煽るけれども、その本質は労働者個人の権利を実現するために既存社会を否定し、理想の国家社会を創造しようとするイデオロギーです。一見対立するようにも見えますが、合理主義という点では同根です。

気づけば社会主義と同じ発想に陥った市場原理主義

 そもそも、こうした合理主義を批判した自由主義者は沢山いたはずです。でも気づけば、彼らの信奉する経済学では、この世に存在しない、理性に支配されて効用を最大化するように振る舞う「個人」が定義され、資源の最適分配を数理的に求めようとるするものの、それと合わない現実に直面し、その度に「改革」を要求してきました。人を自律的な個として捉える限り、合理主義の呪縛からは逃れられないのです。

人間は「自律的個人」ではなく「社会的存在」

 ここで、人間というのは社会的な生き物であるということを断っておきます。私達人間は、他者との関係や社会環境を受けて嗜好を形成するものです。逆に言うと、完全に孤立したような存在は、人間であることすらできません。この他者との関係を集合的にしたものを共同体と呼びます。人間というのは協調し、未来のある目的のために強調することでより力を発揮することを可能としてきました。

政治とは、共同体が力を発揮するための協調行動

 政治というのは、社会的な人間同士が構成員を動かすための協調行動のことを言います。政治は、地方自治体といった主権を持つ共同体だけでなく教育団体、宗教団体といった道徳的なもの、労働組合や企業といった経済的なものにもあります。

 この共同体内部では異質の人間、そして異質の他の共同体同士が規則や組織に規律されながら「政治」を通じてうまく協調しあっているわけです。しかしこれは理性的な個人という発想からは一切生まれてこないものです。

過去の経済学に「政治」の概念はない

 理性に突き動かされる個人を仮定する過去の経済学には、理想的な姿を合理的に作ることが出来るという大きな誤解があります。理想的な姿というのは一意にトップダウン式で決めることはできません。これは市場原理主義者と社会主義者双方が陥った過ちであると考えます。

 近年では議員定数の削減がもてはやされ、トップダウン式の素早い決断こそが理想とされ、小選挙区制をはじめ多くの改革が為されてきました。しかしこれによって見捨てられた人は多くいます。人間の実際の活動というのは、経済学の想定する「経済人」の行動よりも遥かに複雑なものであり、この複雑な活動そのものが政治です。

経世済民を成し遂げるためには、個人ではなくまず社会関係を見るところから始めるべきです。

参考


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