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【Oppositeな日常 005】言葉の届かない、反対側の世界へ

あふれかえる言葉たち

自分自身が、こう、メディアを利用し、駄文を重ねている状況で、こんなこと言えた義理でもないが、世の中に溢れかえる言葉の多さに驚く。
テキスト、音声、動画、少しずつ形態を変えながら、凄まじいボリュームの言葉が発信されている。ネット社会の更なる進化、コロナを契機とした社会構造の変化、その他様々な事象が語られうるだろうし、一方で、溢れ返る言葉たちのうちの反復性・表層性、なんてところも論点だろうが、今回は触れない。

言葉の届かない世界

ただ、自分がそもそもこのnote上でテキストを書き始めた動機、あるいはささやかな無意識の野望の一つに、「世の中、書くことでは届かない、言葉の裏側とでも言うべき世界があって、だからこそ、そこにあえて書くことで近寄ってみたい」という思いがあることを、一度記してみたかった。

多少なりとも月日を費やして生きてくれば、人生の様々な局面において、心の叫びが声にならなかった悔しい思い出、感動を言葉にする術を無効化するまでに圧倒的な文芸作品、溢れる想いがまるで届かなかった恋、一番近くにいると思った特別な人との間に発見してしまった絶望的に深い隔たり、いつかまた会って笑い話をするつもりでいた友人の不意の死、などなど、言葉の無力を幾度となく経験する。

この世の中には、言葉になることよりも、言葉にしたくても出来ないことの方がはるかに多いのだ、と気付いた時、初めて、真の意味で大人になった気もした。

言葉の世界とその反対側の世界

だからこそ、言葉がネットを介して爆発的に溢れかえる今、その分、その言葉の世界の裏側で、言葉にし得ない世界も爆発的に拡大しているはずだ。

ヘイトクライム、ネット上での過剰な中傷、いじめ、反動的な同調圧力などなど、言葉が暴走する反対側で何かが自分でも気付かぬうちに膨れ上がってしまっているからではないか?
はっきりボリュームとして認知可能な言葉の爆発に比べて、その反対側の世界の爆発を測る術が無い故に、人は戸惑うのか?
あるいは、爆発的に溢れかえっているようで、そのどれもが、表層的なコピーとフェイクにまみれている、つまり、逆に空虚であることに疲れているのか?

Think Opposite、反対側の世界に目を向けること

そもそも、バランスなど無いからこそ、反対側の世界ではあるのだが、しかし、だからこそ、その、言葉の反対側の世界、をきちんと認知したいと願う。

自分が普段よく使う言葉を勝手に丁寧に分析した上で自分にオススメなその他の言葉を親切にどんどん送り込んでくれるネットサービスに背を向け、安易に自分をほっこりさせてくれるちょっといい話にも振り向かず、こうするのが正解だよと手取り足取り指南してくれるビジネス書を閉じ、言葉が辿り着けない、生々しい土の香りのする事件に出会うこと。

それこそが、生きていることの醍醐味だ。

将来の進路が見えず悶々としたり、与えられた課題を前に立ちすくみ、どう取り組んで良いか分からない、という若者が、一歩前に踏み出すために役立つだろうと思い、Think Oppositeなる、ある種逆転の発想法を紹介している。
自分自身が、ロジックの異なる海外での業務、片務契約下でのプロジェクト、初めてつくしの仕事などなど、なんとか火事場の馬鹿力で乗り切った経験から考え出した、知的サバイバル術みたいなもの。実際に、いろんな局面で役立つと信じている。

だが、本音で言うなら、Think Oppositeは、その様な一つ一つの課題の解決に役立つだけでなく、もっと人生における、言葉の届かない領域にそっと触れるための「知恵」でもあると思っている。
その第一歩が、ものごとの反対側に意識を向けること。

現代を楽しみながら生き延びるための、希望に満ち満ちた、知的サバイバル術として

かつての自分もまた、将来に希望が持てず、糸口の見えない課題に呆然とする若者の一人だった。
ど残業で毎日深夜過ぎに帰宅し、狭い独身寮の片隅で、翌朝に響かない程度に、と身体も心も小さくなりながら缶ビール片手に、テレビの深夜番組やネットの掲示板を覗いていた。
たいていの場合、どこか気だるい思いで、ブラウン管や、画素の荒い小さなパソコンの液晶画面を眺めていた訳だが、ある日、日本の野球界を飛び出し、メジャーリーグで活躍する野茂英雄投手の、あの美しいフォームを目にして、息を飲んだ。
日本の野球界というしがらみをするりと抜け出し、誰もが想像していなかった、ある種反対側へ飛び出した野茂選手。文字通り、地球の反対側で、体を反転しながらしなる、あの一連の動作の美しさ。それは、当時の環境にくすぶり、自分自身で作ってしまった枠組みを飛び出せずにいた自分に、いろんな意味で「反対側」を見せてくれたシーンでもあった。いや、簡単に言うと、言葉に出来ない希望であり、勇気でもあった。

深夜のテレビやネットを介してでも、そんな、希望に出会うことができた。であれば、逆に、今、この言葉の氾濫する社会において、その氾濫の真っ只中のネット上で、そんな希望を撒き散らすことも可能ではないか。

ただし、そこには、相当な覚悟と、したたかさも求められよう。
言葉を使って、言葉の反対側の世界に触れようとすること。
ある意味、検索できることが前提の世界で、検索不能な体験を求めることでもある。
長くて読みづらいテキストを連ね、まるで50を超えて、ちょっとした厨二病患ったのか、とも思われかねないが、読むことの可能性に満ち満ちた言葉を連ねるよりも、読まないことの不可能性の側に属したいと切に思う。

ひねくれて、斜に構えた、Think Oppositeなる知恵に端を発する、テキスト群。
それが、いずれ、深夜にネットを漂う、名も知らぬ、気だるい若者の心に少しばかり引っかかり、言葉にならない反対側の世界を想起させ、その若者の将来に、ささやかな希望を与えないとも限らない。



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