【三寸の舌の有らん限り】[12]-山本権兵衛01-(1080文字)

 海軍大臣・山本権兵衛は嘉永五年に鹿児島県鍛治屋町に生まれている。
嘉永五年(1852年)はペリーが浦賀にやって来た年である。

 生麦事件に端を発した文久三年(1863年)の薩英戦争では、当時11歳だった山本権兵衛は爆弾運搬の雑役として参加している。これが初陣となる。
 以後、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に薩摩藩士として参加している。

 東京への遊学を命じられた山本権兵衛は、西郷隆盛から勝海舟への紹介状を貰い、勝海舟の元を訪れた。
 それが山本権兵衛の海軍人生の始まりだった。

 海軍省に赴いた金子堅太郎は、海軍大臣・山本権兵衛に会い、陸軍のことを聞いてきたが、海軍の方はどうか。勝つ見込みはあるかと尋ねた。

 その問いに山本権兵衛は答える。
 
 「まず、日本の軍艦は半分沈める。その代わりに残りの半分をもってロシアの艦隊を全滅させる。こういう見当をつけている」

 海軍の軍艦の半分を犠牲にするが、ロシアの艦隊は全滅させる、そう山本権平は言うのだった。

 陸軍の四分六分よりはよい方だと金子堅太郎は思った。そして児玉源太郎から聞いた陸軍の見込みを山本権兵衛に話した。

 「そうか。こちらはそのつもりで半分の軍艦は犠牲にする。また人間も半分は犠牲にする故に、君もアメリカに於いては、どうかそのつもりでおってくれ」
 山本権兵衛はそう言った。

 海軍の対ロシア戦の見込みを知ることができた、金子堅太郎は、山本権兵衛と握手をして海軍省を後にしたのだった。

 金子堅太郎が政府の要人たちと会っている間も、陸海軍の作戦は遂行されている。
 対ロシア戦において、ロシアに先んじて、韓国・京城を確保することは、最重要目的であった。
 その目的達成に貢献したひとりが、明治37年1月22日に韓国公使館附武官を命じられた伊地知幸介であった。
 
(続く)


■引用・参考資料■
●「金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる」 著:松村 正義
●「日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究」    著:松村 正義
●「日露戦争・日米外交秘録」           著:金子 堅太郎
●「日露戦争 起源と開戦 下」          著:和田 春樹
●「世界史の中の日露戦争」            著:山田 朗
●「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」  著:長南 政義
●「児玉源太郎」                 著:長南 政義
●「小村寿太郎とその時代」            著:岡崎 久彦
●「明石工作: 謀略の日露戦争」         著:稲葉 千晴
●「ベルツの日記」                編:トク・ベルツ

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