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7,10-Oct-2020 日記の場

西東京の病院に出張した。先輩のサポートで。「忙しい?」と聞かれたときに返答の選択を間違えて「忙しいところごめんね。」と言われる。「ファイアーエムブレム 風花雪月」だったら、キャラクターのアイコンが高感度が下がったことを表現しているだろう。「もっとも重要な業務を先延ばしにして雑務ばかりやっているから忙しく感じるだけで、業務量は多くないです。」と取り繕ったのがうまくいっているのかどうか明示されるように科学的な視野を内面化した世界はできていないし、横に並んで表情を確認できるほど病院の通路は広くない。

7月から通り雨と通り雨のあいだの時間に外へ出てジャグリングの練習をする生活をしている。一度外に出てしまうと、多少の雨でも樹の下で練習が続けられる。土砂降りになっても濡れた手で濡れたクラブを扱うのが楽しくなってしまうからだ。クラブを何時間でも投げ続けられる一方で、5ボールカスケードを200キャッチするだけで腕がパンプアップしてしまう弱さもある。「よっぽどクラブが身体にあってる人でないとそうはならない」と言われるけれど、わたしは適応力もわりとある方なので「両方の道具が身体に馴染むにこしたことはないな」と思う。

沖縄でも通り雨によくあった。ダイビングをはじめる前に降っていた小雨が海底から戻る頃にはすっきり晴れていた。ドライブをしていると局所的な厚い雲の下でのみ雨が降っていて、天候がめまぐるしく変わる。ずっと見ていられる海がさらに多様な表情を見せて、離さない。

病院で割り当てられた作業部屋で聞こえた、葉にあたる音でその粒の大きさを察させるような土砂降りも、いつもの通り雨だと思っていた。病院を出る頃に止んでいた雨は最寄りに着く頃にまた降りはじめ、やむことはなかった。

「この雨では買い物に行けない」と思い込み、ほうとうを作るために買った野菜でポトフを作ったり、肉の備蓄がない不足をプロテインで補ったりしていた。肉の脂が欲しいスパイスカレーもやめた。レモン汁がないのでアボカドを切っておくことはできないし、豆腐がないので獅子唐の冷奴を作っていない。毎朝食べているソーセージの代わりに残り物の唐揚げを食べた。いつもサラダに入れているレーズンとナッツが尽きた。おろし金は買ってあるのに、おろししょうがをしょうがのみじん切りで代用する。

自転車にカバーをつけるのを忘れていたので、カッパを着て傘をさし、庭までカバーをかけにいく。風で飛ばないように紐をかけているあいだにほとんど濡れることはなかった。むしろ、ひさしぶりに外の空気にふれることができて、気持ちよかった。家の中でおそれていた土砂降りも「どうということはない」のだと理解する。

そのままクルアーンをテーマにした読書会にZOOMで参加する。こちらも参加者の数人に我が家へ来てもらう予定だったが、雨が強いので完全リモートになった。バーチャル飲み会のために設定していた大写しの「わくわくさん」が会の雰囲気にそぐわないので、ヴァスコ=ダ=ガマ沈没船のバーチャル背景に変える。インドへの航海で大活躍した水先案内人がアラブ人ムスリムであることは、よく強調されることである。

クルアーンの良いところは、実際の対話や出来事をもとにしたきわめて具体的な事象をきっかけに、抽象と具体が入り混じって語られるマディーナ垂示と、独立した詩篇として読んだとしても魅力的なマッカ垂示が、ひとつの謡(謡自体にはいくつかの流派がある)によって紡がれている点にある。教えに則って日常生活を営むにはいささか抽象的に感じられる節がある一方、例えば「こんな指摘をされたことによってこの教えが生じたんだろうな」と容易に予測が可能な親しみやすい節もある。この混淆が現実を精刻に捉えて構築された教えであることと、慎重に捉えるべき言葉であることを巧妙に両立している。

言語に間接性をもたせることの重要性を再認識する出来事が最近は多い。差別やハラスメントの当事者が実際にあった出来事について話すのを聞くとき、あるいは、書いているのを読むとき、その「息苦しさ」に耐えながら当事者の苦しみがどこにあるのか捉えようと努力し続けることができる人は、ほんの一握りだ。

その一握りの人でさえ、置かれた状況や経験してきた出来事によって「そんな出来事が起こったということ」あるいは、その出来事にあたえられた被害者による「こうなのではないか」という解釈に拒絶反応を示してしまう。そしてその拒絶反応は「そんな事実はなかった」という当事者の抑圧や、「その捉え方はおかしい」という当事者の認知に対する批判に向かう。

「言い方/書き方がおかしい」という批判は、聞き手/読み手としての自分自身のリテラシーに対するインテグリティのなさを示すだけの物言いになるだろう。上述したような「息苦しさ」の存在と、被害者の告解を「息苦しく感じてはいけない」という規範の板挟みによる受け手の苦しみの解消は、つねに被害者を〈生贄の山羊〉にすることによって為されてきた。

そのような危険に被害者を晒すことなく、安心して言葉を発信してもらうためには、今から「聞き手/読み手」の側を啓発し、自らも良い受け手であることを目指すだけでは遅すぎる。現在起こっているのは、あからさまな差別、侮辱、抑圧が「見せつけ」として公衆に放映・拡散され、情報汚染に無防備な人々が、善良で、背景の異なる人々の表現を理解し、愛着をもった「受け手」であることから遠ざけられるという現象だからだ。今この瞬間に身を裂かれるような思いをしている人々が、今すぐ、安心して考えていることを表現できるようにするため、間接性を確保した表現媒体や、直接的であっても内部に間接性を設けられるような文章をうまく構築していければと、切に思う。

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