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【歎異抄から人生を考える】#006 救いの平等性

浄土真宗で大切にされている『歎異抄』(たんにしょう)という書物がある。人間の常識を覆すような鋭い言葉の数々が綴られ、読み進むにつれ、我々のもつ常識や価値観が揺さぶられていくような感覚を覚える書である。

そこに扱われているテーマは、善悪や人間の本質、生と死の問題などと深い。時代を超えて問題となる、普遍的な内容がそこに記されている。
『歎異抄』を通して、人生とは何かについて考えてみたい。

今回は、『歎異抄』シリーズの6回目。前回に続き、『歎異抄』の「第一条」である信心正因章(しんじんしょういんしょう)について見ていきたい。


◆『歎異抄』第一条 信心正因章

【本文】
一 弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議にたすけられまゐらせて、往生(おうじょう)をばとぐるなりと信じて念仏(ねんぶつ)申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。
(『浄土真宗聖典 註釈版第二版』八三一頁)
◆【意訳】
「阿弥陀如来の不思議な誓いと願いのはたらきに救われて、浄土に往き生まれさせていただくのである」と信じて、お念仏を称えようという心がおこるとき、阿弥陀如来はただちに摂(おさ)め取って捨てないという利益(りやく)をお与えくださるのです。

阿弥陀如来の「全てのものを必ず救う」という願いは、老人も若者も、善人も悪人も、いかなる人もわけへだてなさいません。ただ、阿弥陀如来の救いを疑いなく信じる心がきわめて重要であると知るべきです。その理由は、苦しみをまねくような、道理(すじみち)に反した罪や悪の行為をどうしてもしてしまう我々、燃え盛る火のように様々な欲望が盛んな我々を、阿弥陀如来が救おうとしておこされた願いだからです。

ですから、「全てのものを必ず救う」という阿弥陀如来の願いを疑いなく信じるならば、救われるためにお念仏以外のどのような善も重要ではありません。阿弥陀如来よりいただいたお念仏にまさるほどの善はないからです。また、どんな悪も恐れることはありません。阿弥陀如来の救いをさまたげるほどの悪はないからです。このように、親鸞聖人は仰せになりました。


◆救いの平等性

前回までに、『歎異抄』第一条の前半部分をみてきた。今回は、「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」という部分を味わっていく。

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