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浄土真宗【正信偈を学ぶ】第41回_如来所以興出世~応信如来如実言_五濁③

【正信偈を学ぶ】シリーズでは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が書いた「正信念仏偈」の内容について解説しています。 日々を安らかに、人生を心豊かに感じられるような仏縁となれば幸いです。

さてこの数回、「正信偈」の「如来所以興出世」から「応信如来如実言」までの四つの句について見ています。その中に「五濁」という言葉が出てきます。前回、前々回と、その「五濁」という言葉をもとに、「正信偈」を現代の私たちに引き寄せて味わっていきました。

「五濁」とは、末法のような悪世に見られる五つの濁りのことを言います。その五つとは、「劫濁」(こうじょく)、「見濁」(けんじょく)、「煩悩濁」(ぼんのうじょく)、「衆生濁」(しゅじょうじょく)、「命濁」(みょうじょく)の五つです。

今回は、「五濁」の中の「命濁」について、見ていきたいと思います。それでは、さっそく見ていきましょう。

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◆命濁

「五濁」の五つ目は、「命濁」(みょうじょく)です。『浄土真宗辞典』によると、「命濁」とは「衆生の寿命が次第に短くなること」とあります。

衆生とは、生きとし生けるものという意味で、ここでは人々と訳していいかと思います。「命濁」とは、末法という悪世においては、人々の寿命が次第に短くなるという意味の言葉です。

この「命濁」の寿命が短くなるとは、どのように考えたら良いのでしょうか。現代の日本では、医療の進歩や、栄養状態や衛生状態の向上によって、平均寿命は年々延びています。ですので、この寿命が短くなるとは、単純に人々の平均寿命が短くなるということではないのでしょうね。

法然聖人や親鸞聖人が尊敬された中国のお坊さんに、善導大師という方がおられます。その善導大師の書かれた『法事讃』という書物には、「命濁」とは「正しい教えである仏法に背き、誤った見解を依りどころとし、不当に害をなす」とあります。

また、同じく善導大師の『観経四帖疏』という書物には、「命濁」とは「自分中心の見解や煩悩によって、多く害をなし、慈しみや思いやりの心を持つことがない」と示されています。

ここから考えると、「命濁」とは、仏法に示されるような、他者への慈しみや思いやりをもった生き方をしていないことと言えそうです。またそれは、誤った見解にもとづき、自分中心の見方や、欲や怒りにまかせた行動によって、自分も他者をも傷付けるような生き方をしていることとも言えそうです。

つまり「命濁」とは、自分と他者のいのちを大切にしない生き方と言えるのではないでしょうか。そしてその、自分や他者のいのちを大切にしない生き方を、寿命が短くなると表現されているのではないでしょうか。

自分中心の見方や、欲や怒りにまかせた生き方をしていれば、多くの恨みをかい、悲惨な末路を辿ったり、いつか虚しさや後悔の念におそわれることもあるかもしれません。いただいたいのちを、しっかり生きることができたとは、最後まで思えないかもしれません。

一方で、慈しみや思いやりの心によって、他者と喜びや苦しみを分かち合うようになったり、いのちを大切に丁寧に生きようとすることが、生きているという実感にもつながるのではないでしょうか。

お釈迦様の言葉に、このような言葉があります。

最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。

(『ダンマパダ』115)

仏法の真理に示されるように、いのちを大切に生きることが、生きている実感にもつながるのかもしれません。ひるがえって、いのちを大切にして生きないことを、いのちが短くなると表現されているようにも思います。

◆偶然のいのち

さて、私たちのいのちとは、どういうものなのでしょうか。いのちについて、仏教ではどのように示されているのでしょうか。

『日常勤行聖典』の「礼讃文」(らいさんもん)には、このような言葉があります。

人身受けがたし、今すでに受く。

人として生まれることは、とても難しいことです。しかし、すでに人としてのいのちをいただいています。

このような意味の言葉です。

仏教では、このいのちとは、偶然にいただいたものだと示されています。そして、その偶然いただいたいのちとは、尊いものであり、ありがたいものだと言えます。

考えてみると、人として生まれることは、当たり前ではないですね。ひょっとすると、私たちは蟻として生まれてきていたのかもしれません。魚や牛として生まれてきていたのかもしれません。もしくは、生まれていなかったかもしれませんね。

人として生まれたことはたまたまであり、はかりしれないほどの偶然の中にいただいたいのちです。この人生で何を成すかということ以前に、私たちは人として生まれてきた偶然を喜ばないといけないのでしょうね。

しかし、人としていのちをいただいた凄さを、私たちは中々実感できません。なぜなら、自分がこの世に誕生した瞬間のことを覚えていないからです。人として今生きていることが、あまりに当たり前に感じられるからです。

ただし、歳を重ねたり、子どもを授かったりする中で、人として生まれてきたことの尊さやありがたさに気付かされる瞬間もあるように思います。

ある方は、我が子を抱いた瞬間に、「この世に生まれてきてくれてありがとう」という思いになり、いのちの尊さに気付かされたと言っておられました。そして同時に、自分も同じように尊いいのちをいただいていたことに気付かされたともおっしゃっていました。

またある方は、親を看取る中で、昔のことが走馬灯のように思い出され、「自分を生んでくれてありがとう」「育ててくれてありがとう」という思いになったと言っておられました。

「ありがとう」とは、「有難い」ということで、「有ることが難しい」と知らされることです。つまり、当たり前ではないと気付かされ、感謝の思いから出た言葉が「ありがとう」ですね。

私たちは、歳を重ねたり、子どもを授かったりする中で、人として生まれてきたことの尊さやありがたさに気付かされる瞬間もあるように思います。

人身受けがたし、今すでに受く。

このいのちとは、当たり前ではなかった。そう気付かされる時に、このいのちの尊さやありがたさを知らされ、大切に生きようとする思いにもなるのではないでしょうか。

そして、ひょっとしたら自分は、蟻や魚や牛として生まれてきていたのかもしれないといういのちの見方からは、他者のいのちも大切にしようとする生き方にもつながってきます。

無用な殺生をしないようにしようとか、食事をいただく時に、「いただきます」「ごちそうさまでした」と言うようにしようといった行動につながってきます。

◆相互依存のいのち

また仏教には、このいのちとは関係性の中で成立しているいのちであるとも示されています。

仏教に、諸法無我という言葉があります。

諸法無我とは、あらゆるものは単独で存在していないという意味の言葉です。その諸法無我の教えに、このいのちを当てはめて考えてみると、このいのちとは、単独で存在しているものではなく、互いに関係し合いながら、縁によって成立しているいのちだと言えます。

私たちのいのちとは、互いに関係し合い、影響し合い、助け合い、支え合いながら、生きているいのち、生かされているいのちなんでしょうね。それを、相互依存とも言います。相互依存とは、悪い意味ではなく、互いに関係し合っているという意味です。

しかし現代は、何となく自分の力で生きているように錯覚しやすい環境にあります。便利で整った社会や生活環境の中で生きていると、何か自分の力で生きているような錯覚に陥ってしまうことがあります。

水道をひねれば水が出ます。ガスや電気のスイッチを押せば、火を使えますし、部屋が明るくなります。スーパーやコンビニに行けば、食べ物を手に入れることができます。現代の私たちの生活は、こうした生活環境が整った社会の恩恵で成立しています。

水道がなければ、自分で水をくんでこないといけません。ガスや電気がなければ、お風呂を沸かしたり、調理をするために、自分で火を起こす必要があります。食料が販売されていなければ、栽培したり、狩りをしたりして調達しなければなりません。

一食食べるだけでも、大変なことですね。とてもではないですが、自分一人では生きてはいけません。ですから、私たちの祖先は、家族や仲間をつくり、助け合い、支え合いながら生きてきたわけです。

しかし、生活環境や社会インフラが整った現代は、何か自分の力だけで生きている、一人でも生きていける。そんな錯覚に陥りやすい状況になっています。こうした、自分の力だけで生きている、一人で生きているような錯覚は、他者に対する感謝や寛容性を失わせます。

自分で生きているから、別に誰に感謝しなくてもいい。自分はお金を払っているのだから、別に感謝しなくてもいい。そうした助けられていることや支えられていることの実感のなさが、感謝を忘れた自分中心の生き方、傲慢な生き方にもつながってくるのでしょう。それが、他者に対する感謝や寛容性を失わせ、いのちを大切にしないことにもつながるのでしょう。

そしてまた、他者とのつながりが薄れることで、生きている実感を感じにくくもなります。自分は何のために生きているんだろうかと思ったり、自分が生きていても別に誰も喜ばないんじゃないか、誰の役にも立っていないんじゃないか、生きていてもしょうがないんじゃないか。そんなことを考えるようにもなります。

実際はそんなことはなく、あなたがいてくれることを、自分がいることを、誰かが喜んでくれているはずです。しかし、生活環境や社会インフラが整った現代は、自立することや、何かを成すことに意識が向きやすく、そうできないと評価されたり感じたり時に、自分はだめなんじゃないか、誰にも望まれていないんじゃないかという不安に苛まれます。本当は、この世に生まれてきただけでも尊いことで、ありがたいことなのに、そのことを忘れてしまいがちになるんですね。

私たちは、関係性の中で生きていて、その中で生きていることを実感します。人とご飯を一緒に食べたり、一緒に笑ったり、映画や歌や本の内容について語り合い、共感したり。そうした良き人との関係性の中で、私たちは生きていると実感することも多いのではないでしょうか。

また、自然豊かな中に身を置くことで、土の香りや水の匂い、風のそよぎや小鳥のさえずりなどを五感で感じ、多くのつながりの中に生きていることを実感します。

現代は、整った社会や生活環境の中で、関係性という点で言うと希薄になり、生きている実感を感じにくく、感謝や寛容性を失いやすい。そういう状況にあるということを、「命濁」の話から感じます。そして、それが自分や他者のいのちを大切にせず、命が短くなるという話にもつながってくるように思います。

◆仏縁に遇った喜び

先ほど、「人身受けがたし、今すでに受く」という「礼讃文」の言葉を紹介しました。この言葉には続きがあります。

人身受けがたし、今すでに受く。
仏法聞きがたし、今すでに聞く。

「人身受けがたし、今すでに受く」という言葉の後に、「仏法聞きがたし、今すでに聞く」と続くんですね。

この世に人として生まれることが難しいだけでなく、仏法のご縁、仏縁に遇うこともとても難しいことなんですね。しかし、その仏縁にも私たちはすでに遇っています。その仏縁に遇うことの凄さや喜びが、「礼讃文」には示されています。

仏法とは、自分も他のいのちも、とても尊いものであると気付かせ、生まれてきたこと、生きてきたことを喜ぶような心を育むものです。

私たちは日々の中で、辛いこと、苦しいこと、思い通りにならないことも多々経験します。その苦しみの中にも、生まれてきて良かった、生きてきて良かったと受け取っていける。そんな心が育まれていくのが仏法だと言われます。

そうした仏法を聞いていくことは、このいのちを大切に生きるということにつながってくることでしょう。

そしてまた、このいのちとは、関係性の中で成立しているいのちだと、仏法には示されていました。仏法を聞いていくことで、他者とのつながりが希薄になっている現代に、生きている実感や、他者への感謝や寛容性が失われそうになっていることに気付かされていきます。

そして、一人で生きているのではなかったと知らされ、他者とのつながりの中に、感謝や温もりを感じながら、生きている実感や寛容性を取り戻していく。それが、自分と他者のいのちを大切に生きることにつながるのでしょう。

「正信偈」には、「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という言葉が出てきます。

末法という濁りに満ち、乱れ切った時代を生きる人々は、お釈迦様がお勧めくださるお念仏の教えを信じ、依りどころとするべきです。そのような意味の言葉でした。

末法という、教えを実践するものも、さとりをひらくものもない悪世には、「命濁」のように、いのちを大切にしない傾向が見られる。だからこそ末法を生きる人々は、いのちの尊さ、いのちとは何かが示された仏法、お念仏の教えをたよりとして生きてほしい。

このいただいたいのちを喜び、生まれてきて良かった、生きてきて良かった。そのように、このいのちを輝かせて生きてほしい。自分と他者のいのちを大切にして生きてほしい。

そのような願いが込められているのが、「正信偈」の「五濁悪時群生海 応信如来如実言」という言葉であるように思います。

そしてそれは、連綿と続いてきた無量寿のいのちに開かれていくことでもあります。


いかがだったでしょうか。今回は、「五濁」の「命濁」を通して、「正信偈」を現代の私たちに引き寄せて味わっていきました。皆様どのようなことを感じられたでしょうか。

次回は、「正信偈」の次の言葉に移っていこうと思います。


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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▼前回の記事
浄土真宗【正信偈を学ぶ】第40回_如来所以興出世~応信如来如実言_五濁②|神崎修生@福岡県 信行寺|note

▼次回の記事
【正信偈を学ぶ】第42回_能発一念喜愛心〜如衆水入海一味_阿弥陀仏の慈悲を喜ぶ|神崎修生@福岡県 信行寺|note

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