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話し合える環境には

「話してくれればよかったのにと言われて、返答に困った」と聞かされたことが立て続けにあった。話した方がいいようなことを話さなかったのは、話すことができる環境ではなかったということであり、そうした環境では話して問題が解決したとしても「自分本位」な方向に進んでしまったことへの負担や負い目を感じ続けるようになるかもしれない。そうした空気が流れているから話さなくなり(話そうとしなくなり)聞き手側の人間もその気まずさから何も聞こうともしなくなり、話すことができる環境ではなくなってしまうのだと思う。「どちらが悪いのか」と考えてみる。この場合、どちらか一方が悪いというわけではなく話して側・聞き手側双方に問題があると思う。

「話してくれればよかったのに」とする話の中身は、あまり他言するようなものではないことの方が多い。「その人が抱えている悩み、諸問題」だから、よっぽどのことがなければ「話すべき」ではないし「話さない方がいい」だろう。それでも、話すべきではないことを、あえて話してみることで自分が置かれている状態と相手の人間性を判断してみた。その後の反応は案の定な結果で、「そのまま」のことを第三者に話し続けているようで、いいように受け取れば「腫物に触らないように」悪いように受け取れば「自分が負担を負わないように、辞められてしまわないように」扱われそうな空気がプンプンと漂ってきた。けれど、危機的な状況の時に人の人間性や資質が顕著になってくるように、こうした時にも同様なことが考えられるけれど「関わらないようにされる」可能性の方が高いのかもしれない。

社内に悩み事を相談できる相手がいないのは、毎日が憂鬱でしかない。これだけ長い月日をかけて同じ場所で働き続けてきてもそんな人はいないというのは、客観的に観れば努力が足りなかった結果なんだろう。それは率直に認めなければならないと思う。「けれど…と逆接の言葉を使うから相手に信用し信頼されないんだ」とどこかで誰かに言われたけれど(はっ)絶対に言ってはいけないことなのはわかっているから公言しないようにしているけれど(ああっ)「構造的不遇」が根本にあるような気がしてならないんだ。何を言っても何をやっても…それが結果として…そうか、だから、ずっと1人なわけか。使い勝手よく使われ続けているわけか。人の善意を搾取されながら(皮肉)…なんてことを考えてしまい、これまでの日々での嫌な思いが「ふっ」と思い浮かんできたりして…「惑わず」を過ぎた年齢になって、何をやっているんだろうと思ったりするわけで。

「構造的不遇」な問題があるのならその「構造」を取り除けばいいだけのこと。個人の努力で何とかすればいいだけのこと…なのか?その「構造」は表現は適切ではないかもしれないけれど、他者にとっては都合のいいことなんだと思う。他者にとっては都合のいいことは、私にとっては都合の悪いこと。その都合の悪いことを他者が何とかしてくれるか…まあ、何にもしてくれないでしょう。自分にとって都合のいいことなのに、他者の為に(ややこしい)なんとかしてあげるわけがない。なんとかしてあげたとしても「上辺だけ」になるだろう。負担や負い目を感じさせるような空気を醸造させるだろう。

「人間としての努力」があればそんなことは起きないと言われるかもしれませんが、そんなことは起きないとは言い切れるだろうか。

そう考えてしまうくらいには弥探れているけれど、「構造的な問題」を抱えている環境においては「人間として努力」だけではどうすることもできない大きな壁が存在しているものだと思います。

「人に任せる」と「人に丸投げする」の違いがわからない環境ほどそんな状態なんじゃないかって思う今日この頃。

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