見出し画像

2つの選択肢しかない社会でいいのか。

先日、また1つ年を重ねた。数年前、どん底の時期から少しずつ回復しつつあった時期に「参考程度に考えればいい」と思い占ったもらった占い師(とはちょっと違う人、霊媒師よりの方だったかも)の方曰く「7年間は運気が上昇している」その最後の年になる。あと1年ということか。それを過ぎたらまた地獄のような日々が始まるのか。現在の勤務先でどんどん追い込まれていくとか、転職をしたけれど倒産してしまうとか、病気で倒れてしまうのか、介護が本格的に始まり…様々なことが考えられるけれど、多分1つだけ変わらないものがあると思う。使い勝手のいい存在。都合が悪くなると「声なき声」たる人間に、責任を転嫁。「そうならないように…」事前から手を打とうとしても、暖簾に腕押し。「どんな状況になっても、自分は主役でも脇役でもない。そんな存在であるだろう」と。

「声なき声」であり続けたこと。それがそんな状態を引き起こすことになり、それが今の自分の生きづらさを招いてしまっていることを痛感することが多くなった。「当たり前にしてしまってはいけないことを、当たり前にしてしまった」ことの末路。それを改めるのは並大抵の努力では難しいことも痛感する。「自己責任」をひたすら求める「自助」の考え方には共感できないけれど、「自助」は必要なこと。誰よりも何よりも「自分自身」の為に。けれど、自分ではどうすることもできないことがある。だから、「公助」が必要であり「公助」があることで「自助」も機能する。それが「共助」にも繋がり、本当に助けが必要な人達に救いの手を差し伸べる(差し伸べられる)ことができるようになる。こうした環境でなければ苦しい時に助けを求め難くなるでしょう。普通にできることもやり難くなるでしょう。こうしたことができない状態は双方の為にならないと思います。

「続けなければならないことを続けなければ、当たり前にした方がいいことですらできなくなる」

話し続けること、向き合い続けること、考え続けること、助け合い続けること…こうしたことが1度でも途切れると「元に戻すことは難しい」でしょう。元に戻すことはできるかもしれないけれど、並大抵の努力では難しく元に戻ったように思えても多分それは「今までとは違う何か」で、ものすごく上辺だけな感じになってしまっていると思います。

今の世の中は「0」か「10」かの極端な2つの選択肢の中から解を求める社会。かといって、再起動して人生をやり直せるような社会ではない(再起動できるけれど、再起動しにくい社会)「0」か「10」かの極端な2つの選択肢の中から解を求める社会だから、自己中心的な人間が増えてきてしまった。コロナ禍においてこうした人達とそうではない人達に分かれてきたような気がします。ある意味、分断されつつあって「声なき声」の人達が苦しむことになる…

簡単にまとめれば「不慣れなことに目を向ける、耳を傾ける、チャレンジすることができますか?年齢を重ねた人達が。だからこそ、当たり前にしてはいけないことを当たり前にしてしまうべきではないし、当たり前にしたほうがいいことを当たり前にしていくための継続性の維持は必要」なんだと思う次第。

高齢化社会なんだから「変化」なんか簡単に起きるはずもない。これまでの踏襲踏襲また踏襲。自己中心的な人が増え保守的になっていくのは自然な流れ。けれども、その中で改善点が出てくれば改善し修正していくことで、よりよいものを作り上げていく。こうしていくことでそれが届かない人達に対しても目が届くようになり、またさらに改善し修正していくことで、よりよい社会を作り上げていくようにしていくべきでしょう。それが、双方…全世代の為になる。

「声なき声」の人達、世代をこれ以上苦しめないでください。使い勝手がよく、都合が悪くなるとなんでも押し付けることのできる「声なき声」の人達、世代に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?