見出し画像

自助・共助・公助

「自助・共助・公助」という言葉を知ったのは確か石原慎太郎が都知事の時だったと思う。阪神淡路大震災を教訓として「自助・共助・公助」の考え方が訴えられるようになったのを知ったのもその頃だった(知らなかったとは恥ずかしい)石原慎太郎の唯一の功績は「日本は世界で成功した唯一の社会主義国家」と言ってのけたことだけだと思っていたけれど、「自助・共助・公助」の考え方を世に問うたことも功績の1つだったのだろう。やっぱり、どんな先人の言葉にも耳は傾けておくべきものだと思う(必要でないものは受け入れなければいいだけのこと)

何も自己責任論を求めているわけではないでしょう。「公助」が最優先されるものであるのは言わずもがなではあるけれど、「公助」だけでは行き届かない部分がある。そこで「自助」として、自分達でできることは自分達でやっていきましょうと。そして、「公助」と「自助」が繋がって「共助」していきましょう…という考え方だと思っていた。しかし、世の中、いや大手マスコミや有識者の方からすればこれは自己責任論も甚だしいといことらしい。今はもう「反権力、カッコいい」とか言っているような時代じゃないと思うのだけれど。

たしかに解釈の仕方によっては自己責任だけを求めるのか?と受け取れなくもない。でも、そもそもの始まりとして阪神淡路大震災の教訓として有事の時には「自助・共助・公助」が必要であることがわかったから「自助・共助・公助」が語られるようになったのではないかと。全てを「公助」だけでやれるはずもない。だからこそ「自助」が必要であり「共助」もしていきましょうということではないのか。何故、自己責任論ばかり語られるのかが理解できない。それって「自分のことだけしか考えていない」ってことなんじゃないだろうか。

「大人はさ、ずるいくらいが丁度いいんだ」

どこかで聴いたことのある台詞だけれど、ただ「ずるい」だけなのが「自分のことだけしか考えていない=自己中心的」ということなんだと思う。そんな「ずるさ」は、人の善意や陰日向で努力し続けている人達やこれからの世代の人間に対して失礼千万でしかなく、それは自分にも跳ね返ってくる事なんだと認識した方がいいけれど、それがわからないから「自己中心的なずるさ」をし続けているのだろう。そういう人は。そして、それをおかしいとは思っていない。「それがその人にとっての当たり前のこと」だから。

自分が取り組みたいことや助けを求めたいことがあるのなら、まずは自分でやってみる。多分、その姿を見ていれば大なり小なり表に裏に、何となく助け舟はでてくるものなんじゃないか。「普通の環境なら、普通の人達なら、その人の人間性が悪くないものなら」そうやって互いに互いの事を見ていくことで、お互いに助け合って…いくものなんじゃないかと。「自助・共助・公助」の考え方は、身近な生活の中にあるんじゃないかと。

「普通は」

「自助・共助・公助」の考え方を批判している人達は、多分、その人なりの辛さや虚しさや悲しさを感じているのだろう。「自らやっていくしかない」ような状態に置かれているのだろう。だから、「自助・共助・公助」の考え方を批判しているのかもしれないのかなと思わなくもない。

私自身「自らやっていくしかない」状態に置かれているから。でも、「自助・共助・公助」の考え方を批判する気はない。多分、ここに自分が求める「生き方」「働き方」があって、これから先の人生はそうありたいと思っているから。

これまで以上に。

その理想と現実に押しつぶされているから、辛く虚しく悲しさしかない日常をすごしているのかな……

自分ではどうすることもできない人のために「公助」がある。「自助・共助・公助」を否定的に捉える空気感は、「公助」に助けを求め難くしてしまい「公助」の側もクレームを恐れてしまう状態を作り上げてしまい、本当に助けを求めている人達を追い込んでしまいかねないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?