見出し画像

やり残したことは?

誰かが言った「やり残したことがあるなら次の場所に移れたとしても、後悔ばかり先に立ってしまいうまくやっていけない」と。「評価とは自分でするものではなく、目上の立場の人間が行うもの」との価値観の中においては、「やり残したこと」の定義は自分自身で決めるものではなく、周囲の人間が決めるものなんだろう。…でも、それって「使い勝手のいい存在」として人材を見ていることと同義ではないだろうか。

やり残したことだらけで次に進めない…とするのは言い訳なのはわかっていて(そもそも次の受け入れ先が見つからないけれど)「使い勝手のいい存在」として扱われてきたことで何か感覚がマヒしてしまい「踏み出せないまま」でいることも言い訳なのはわかっている。結局、自分自身の問題なんだけれど現状において「理不尽を受け入れて、それを常態化させてしまった」ことが、そんな言い訳がましい状況を生み出してしまって…とするのも言い訳なのはわかっているけれど、そうせざるを得なかった現実と向き合い続けた日々だったんじゃないかと思うわけで。

そもそも「そうせざるを得なかった」と考えてしまうことが間違っているけれど。

今の職場において「やり残したこと」は3つある。そのうちの1つは片付きそうだ。残り2つは「これからの」自分自身の為に必要なこと、それが結果として周囲の為になるものだと信じてはいるけれど「文句」しか言われないことはわかっているので…前に進めない。「やらなきゃ」と考える自分と「そこまでやってあげる義理があるのか」とする自分の葛藤だけじゃなく、「理不尽なこと」に向き合うストレスに負けっぱなしなので…このことこそ言い訳だろう。グダグダでグズグズだけれどはっきりしていることは「やり残したことをやり尽くす」だけじゃない「ただ続いているだけの今の生活を改めること、グレートリセットすること」それだけははっきりしている。その為に何とか今の職場における「やり残したこと」をやり尽くしておきたい。

その「やり残したこと」も普段の仕事と同じく「自己完結」するもので、「文句」しか言われないことは百も承知だけれど(読まれない、聞かれない、添削されない、向き合いもせずに「ないないない」尽くし)「文句」を言えば「コミュニケーション不足であったこと、指導不足」を認めることになるだろうから、そこまで「文句」は言わないとは思いたいけれど…多分、それは気が付かないだろう。だから、「やらなきゃ」と考える自分と「そこまでやってあげる義理があるのか」と葛藤が生まれる。それでも誰かが言った「やり残したことがあるなら次の場所に移れたとしても、後悔ばかり先に立ってしまいうまくやっていけない」との言葉は忘れないようにしたい。

自分に至らない点があったこと。それは何度となく書いてきたことだけれど、コミュニケーション不足が勝手な思い込みを持たれ一方的な発言を生み、理不尽なことや理不尽な発言を引き出してしまったのだろうから(こう考えてしまうこと自体間違っているのかもしれませんが、どうしても私はこうしたことはコミュニケーション不足が招いていることだと思えてなりません)「自業自得」と言われても仕方がないでしょう。けれど、これだけ長くいてブレないのは…それだけが原因じゃないとしか思えない。

不安な感情を相手にも強いる同調圧力が高まる一方でコミュニケーションをとろうとしても避けられ続ける状態。進むべき方向性は間違っていなくても、進むべき場所は間違っていたと思う次第。

これも「繋がり」を持てず「居場所」を作れなかった自己責任、努力不足か…努力とはしないよりもした方がいいくらいのもので、結局は生理的に合うか合わないかで大きく左右されるものなんだろうなと思えてならないけれど。「社会が不安定な時期」だからそんなことにも気が付くことができるのだと思う。

脱線しまくりだけれども「やり残したこと」に向き合ったその先に希望があると信じて、「やり残したこと」を終わらせるようにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?