芸術作品、プロトタイプ、理論的対象

1 現代芸術は、いわゆる「脱物質化」(ルーシー・リパード)以後、一個のタブローやオブジェというよりも、ネットワークの一結節点としての様相をますます呈してきている。一九六〇年代の造形芸術に生じたプロセスやコンセプトの重視、プロジェクトやインストラクションの設定、イヴェントやハプニングの実行は、今日の世界各地でのアート・フェスティヴァルの隆盛とアーティスト・イン・レジデンスの定着のなかで、もはや当然のものになったかに見える。ときおり思い出したかのように周期的に復権が叫ばれるタブローですら、さまざまな場所や土地に滞在しての制作と発表がこれほど定着してしまうと、その地で生じた(生じうる)コミュニケーションと完全に切り離して見ることは難しい。芸術作品は、自己完結した一つの世界であることをやめて、作家と観客のコミュニケーション空間を往来し循環する一つの要素になった。それどころか、「開かれた作品」(ウンベルト・エーコ)から「関係性の美学」(ニコラ・ブリオー)まで、人間たちのコミュニケーション空間それ自体こそが、次第に「芸術」そのものと見なされていっただろう。
 こうした変化は、芸術の制作においてだけでなく、批評や研究などの芸術の言説でも連動して生じている。一九六〇年代以降、美術批評ではフォーマリズム全盛に翳りが差しはじめ、やがて「フレンチ・セオリー」の流入とともに、作品の形式的な新しさから主体の欲望や芸術の制度などに記述の焦点が移っていく。美術史学では、それまでの様式論と図像学の折衷的研究手法が限界を迎えたかのように、急速に記号論や受容美学、社会史や文化研究、さらには人類学や認知科学の知見が導入され、その動向はのちに「ニュー・アートヒストリー」と名指されるようになる。ここでも芸術は、もはや一個の作品であることをやめて、心理的であれ無意識的であれ、はたまた記号的であれ社会的であれ、人間たちのコミュニケーション空間そのものの名称の一つになっていった。
 とすれば、現代芸術の「脱物質化」には、マテリアルやメディウムの変化という以上のものがある。そこで生じているのは、ジョン・オースティン以来の言語行為論の用語をもちいれば、さしずめ芸術の「コンスタティヴ(事実確認的)」なレヴェルから「パフォーマティヴ(行為遂行的)」なレヴェルへの視点移動と言える。すなわち、作品の意味や内容(作品はなにを語っているのか)よりも、作品の機能や効果(作品はなにを行っているのか)が問題になったのだ。さらに換言すれば、観客への効果、ないし出来事を引き起こす効力こそが、芸術にとって本質的なものと見なされはじめたのである(ネルソン・グッドマンが「なにが芸術なのか」ではなく「いつ芸術なのか」を問うべきだと主張したのも、同様の観点からだろう)。
 結果、タブローやオブジェが現実社会に組み込まれているさまがはっきりと可視化され、それまで背景に退いていた人間たちのコミュニケーション空間が芸術の実体として前景に迫り出してくる。芸術は「脱物質化」することで、ある意味では、逆にいっそう現実へと近づき、社会に深く根ざしたものになったのである。

2 情報技術のたえざる革新により、現代社会は未来派的な「高速性」の美学をとうに踏み越えて、「同時性」と「遍在性」の理想を実現すべく、ますます邁進しているかに見える。その反面、現代芸術の定石となったインスタレーションの手法は、各地のコミュニティでの滞在制作や地域レヴェルでの芸術産業の浸透と相俟って、その時その場でしかありえない経験を生み出そうと、ますます専心しているかに見える。グローバルな拡張とローカルな限定、遍在と偏在。この対照的な動向は、しかしいずれも現代社会におけるコミュニケーションのパフォーマティヴな局面の全面化という点では通底しているだろう。グローバルであれローカルであれ、結局は範囲が広いか狭いかだけで、直接的で瞬時に伝わるコミュニケーションばかりが全面に迫り出しているのだ。
 このとき、実際のコミュニケーションにつきものの擦れ違いや勘違い、早すぎたり遅すぎたりするタイミングのズレ、思いがけない中断や予期せぬ再開は、苛立たしいものでしかない。けれどもこうした失敗を、グローバルであれローカルであれ、いまここに限定されてしまっている直接的なコミュニケーションの空間を跨ぎ越えて、ネットワークを別の時間へと押し広げていく契機だと考えてみれば、どうだろうか。
 二〇〇〇年代に入って、エリー・デューリングはまさにこの観点から、「脱物質化」以後の現代芸術のステータスを捉えなおしはじめた。つまり、失敗自体を次の制作の新たな可能性につなげていく「プロトタイプ」として、試作品として、芸術作品を考えたのである。試作品はあくまで叩き台として作られるため、作りなおすことができるし、もっと言えば、失敗しようと成功しようと作るたびに改良と創造の余地を広げていく。アイディアやコンセプトはひとたび実現されたらおわりかもしれないが、試作品は別様に作りなおすことができる。制作するたびに可能性が一つずつ実現されて、可能性が減っていってしまうと考えるのではなく、制作するたびに可能性が広がっていくのだと考えるのが、試作品を作る人間に固有の発想である。
 「開かれた作品」から「関係性の美学」まで、プロセスやパフォーマンスや関係性の成立はえてして可能性の実現にして消尽だと考えられがちだった。その時その場でパフォーマティヴに発動し、消滅していくものだった。しかし「プロトタイプ」としての芸術作品は、制作プロセスの「一時停止」であって「完了」ではないため、失敗しても成功しても「再開」されうる。そこでは失敗ですらも、成功と同じほど新しい制作の可能性を押し広げ、芸術作品が時間を超えて持続していくことを保証してくれる。失敗すればそれでおわり――そうした強迫観念から解放された芸術は、人間たちのコミュニケーション空間におもねることもなく、グローバルもローカルも気にせずに、遅れたり先走ったりして時間を飛び越えながら、いまここのネットワークの綻びと解れと失敗を新しいネットワークの結節点に変えていくだろう。

3 ピエール・ノラ監修の『記憶の場』プロジェクトが大きな反響を呼び、アナール派歴史学による政治史から社会史への転回が――つまり歴史学一般における「コンスタティヴ」から「パフォーマティヴ」への視点移動が――いよいよ成し遂げられつつあった一九八〇年代、その牙城たるパリの社会科学高等研究院(EHESS)の美術史家たちは、ひっそりと「アナクロニズム」を語りはじめた。
 芸術作品はときとして制作されたその時代からかけはなれた印象を与え、観客に時代錯誤的な連想を誘発する。ダニエル・アラスはベラスケスの《ラス・メニーナス》を見てカントの『純粋理性批判』を想起し、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンはフラ・アンジェリコの《影の聖母》をまえにしてポロックのドリッピングを連想してしまうという。もちろん、一七世紀のベラスケスが一八世紀のカントを読むわけもなく、一五世紀のフラ・アンジェリコが二〇世紀のポロックを見たはずもない。その意味で、時代錯誤的な連想はたんなる誤謬にすぎない。とはいえ、いったいなぜそうした連想が引き起こされるのだろうか。それを考えないかぎり、芸術作品の本質的な特徴の一つを見過ごすことになるだろう。というのも、時代錯誤を誘発するのは、間違いなく作品そのものに描き込まれている特徴であるからだ。
 かくして、アラスとディディ=ユベルマン、そして彼らの師たるルイ・マランとユベール・ダミッシュは、芸術のアナクロニズムを問いはじめ、芸術作品を「理論的対象」として理解するにいたる。すなわち、芸術作品はそれ自体に理論を内包し、それ自体で理論を提起しており、時代を跨ぎ越えて別の作品を、さらには思想や観念をも、理解可能にするというのである。フラ・アンジェリコとポロック、あるいはベラスケスとカントを結びつけてしまうアナクロニズムは、そのように時代を超え出ることのできる芸術作品の理論的な力のあらわれにほかならない。
 芸術のパフォーマティヴなレヴェルに着目するとき、まさに盲点になってしまうものこそ、この時代を跨ぎ越える芸術作品の理論的な力だろう。作品が観客に与える効果、作品が出来事を引き起こす効力は、当然ながら、観客や出来事というコンテクストにおいてしか、人間たちのコミュニケーション空間の内部でしか、測ることができない。「開かれた作品」はいまここでの体験のうちに閉ざされており、「関係性の美学」はその時その場でしか関係性を取り結ばない。そのために、芸術を人間たちのコミュニケーション空間そのものと見なすなら、作品はその空間を超え出る力をなくし、「時代」のうちに溶け去ってしまう。芸術は、「脱物質化」によって現実社会そのものと一致できたかと思いきや、「時代精神」のたんなる反映に成り下がってしまうのである。
 その意味では、リレーショナル・アートとアーカイヴァル・アートは鏡像関係にある。いまここに現前している人間たちのネットワークを織り成すリレーショナル・アートと、かつてそこに存在していた人間たちのネットワークを紡ぎ出すアーカイヴァル・アートは、現在と過去、現前と痕跡というように、一見して対極にあるようでいて、どちらもある時点の状況に、「時代」の内部に、閉ざされているのである。
 それに対して「理論的対象」としての芸術作品は、その時その場に縛られた人間たちのコミュニケーション空間を飛び越えて、だれもが考えもしなかった時代錯誤的なネットワークを織り成していく。それをまえにして、人間たちはみずからの経験と思考がどれほど狭く限られたものでしかなかったのか、けれどもまた、その経験と思考がどれほど広がる余地を残しているのか、気づくことになる。意味や内容(作品はなにを語っているのか)とも、機能や効果(作品はなにを行っているのか)とも異なる水準で、芸術作品は人間たちに経験と思考(作品はなにを考えているのか)を差し出すことができるのだ。*1

*1 岡本源太「芸術作品、プロトタイプ、理論的対象」、『であ、しゅとぅるむ』展カタログ、Review House編集室、2013年、77-79頁


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岡本源太(美学)。出来事を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/
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