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柳田国男と藤澤衛彦の「伝説」理解

 以下の記事で、柳田国男が同時代の伝説を研究していた藤澤衛彦(もとひこ→2021/11/3  正しくは、「もりひこ」Webでご指摘いただく。)に批判的であったのではないかということを紹介した。では、両者の主張は具体的にどのようなものであったのだろうか?まずは、柳田の『郷土誌論』(『定本 柳田國男集 第二十五巻』(筑摩書房, 1970年)に収録)には、柳田の伝説に関する考え方が述べられているので、「郷土の年代記と英雄」から該当する部分を以下に引用してみたい。

(前略)この伝説の史的価値幾何と云ふことは、常に困難なる問題であります。伝説は多数の人々が多数の人々より聴く話です。故意の潤色を加ふべき機会の極めて少ないものです。故に其誇張にしても変化にしても、それぞれに自然の動機が無ければなりませぬ。(中略)我々の見る所では、現在日本の郷土に充満して居る英雄の諸伝説は、あまり深い根ざしを持った者は稀で、多くは中古の接穂だと思ひます。(中略)伝説の要素又は中心点とも云ふべき部分は、英雄其者のえらさを現はさうとして居りませぬ。目的は一株の樹乃至は一座の封土の神聖侵すべからざること、或神域仏の威徳には久しき証跡のあること、或種の年中行事が村の存する限り廃すべからざるものであること等を、住民の頭に浸込ませんとするに在りまして、(中略)日本の英雄崇拝は、武邊咄の無暗に盛であつた時代に始まると言つても過言でありませぬ。最初は実際村民の同情を催した地侍や館の主の物語であつたかも知れませぬ。寺に過去帳あり石碑の文字が鮮明であれば格別、其痕跡絶えての後は農民は名乗や戒名には疎い者ですから、首を傾け傾けさうかも知れぬの方へ引摺られて行くので、実は人皇何十何代だの古い年号などは、伝説の元の領分では無いのです。伝説中の英雄が名を改め、三百五百年を一飛びに移つたとて、ちつとも不思議はありませぬ。(後略)(一部を現代仮名遣いにあらため、筆者が重要あると考えた部分を太字にした。)

ここで重要なのは、柳田が伝説を古いものが保存されているとそのまま捉えるのでなく、時代と共に変化しており古いと思われる部分は後代に後付けされたものが多いと考えていたことである。柳田は、伝説の中に含まれている昔の人物、出来事、年代をそのまま信じてどちらの方が歴史があるかを村同士で競っていた当時の状況を批判的にみていた。

 上記に一部を引用した「郷土の年代記と英雄」は、柳田と高木敏雄が編集していた『郷土研究』2巻8号(1914年10月)に掲載されている。柳田のこの文章が発表された時期に近い1917年には、藤澤が編集した『日本伝説叢書』(日本伝説叢書刊行会)のシリーズの刊行が開始されている。『日本伝説叢書』第1巻(1917年)には、「序・日本の伝説について」という藤澤の文章が収録されており、藤澤の伝説に関する考えが述べられている。以下に該当する部分を引用してみたい。

(前略)伝説は、社会が黙つて伝へた、純な飾りの無い歴史であります。(中略)赤や紫や青や黄や色彩さまざまな衣装を着けた歴史の原始の姿である伝説を、限り無く歎美したいと思ひます。何れの国の何れの歴史にも、伝説の俤(おもかげ)を留めないものはありません。殊に、それらの國の最も古い歴史を読んで見たなら、誰でも、史実は寧ろ少なくて、伝説の寧ろ多いのに驚くでせう。伝説積り累つて、軈て歴史の第一葉が出来るのでございます。(一部を現代仮名遣いにあらためた。)

伝説を歴史の一番はじめの方にある「歴史の原始の姿」と藤澤が考えていたことが分かる。この考えは、柳田が伝説を時代によって変化して古いと思われる部分も後付けされた可能性があると考えていたのとは大きく異なっている。柳田は同時代に流通していた藤澤のような言説を念頭において、「郷土の年代記と英雄」を書いていたのだろうか。『増補改訂 柳田文庫蔵書目録』(成城大学民俗学研究所, 2003年)で確認すると、『日本伝説叢書』のシリーズのうち上総の巻、北武蔵の巻、伊豆の巻、信濃の巻、明石の巻、阿波の巻が柳田の蔵書の中にあるのが確認できた。柳田は『日本伝説叢書』が出版されていることを知っていたと言えるだろう。

 ところで、藤澤は『日本伝説叢書』のシリーズを「皇統三千年世界に冠たるわが邦土の光栄の為めに、純日本の所産である伝説美を示して、即ち世の読者諸君の感銘を願ふ」ために企画したようだ。この立場も柳田と異なっている。同じく『郷土誌論』に収録されている「郷土誌編纂者の用意」の中で、「愛郷の精神を養ふは則ち愛國心を盛ならしむる所以」という理由で出版された郷土誌が、「愛郷心を養つてもらふ位の読者」を想定しており、彼らに対しては「存外説明は容易なもので」あるため、郷土誌の内容の質が低下してしまうことを柳田は懸念している。この考えにしたがうと、藤澤の『日本伝説叢書』は柳田にとって不満が残るものであったと言えるだろう。

 では、柳田は郷土誌の読者としてどのような人々を想定していたのだろうか?私が『郷土誌論』を読む限りでは、柳田は郷土誌の読者として地域で政治に関係している人々や政策担当者などを想定していたと思われる。郷土誌の編纂が治世に必要であると柳田が考えていたとも言えるだろう。『柳田国男の民俗学構想』室井康成さん(森話社, 2010年)では、人々をいかに啓蒙して統治していくかという国家官僚としての柳田の立場から『遠野物語』出版の「動機」が論じられているが、この立場の延長線に『郷土誌論』や柳田の初期の郷土誌に対する考えもあったのだろうか。

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