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柳田国男の周りにいたけど忘れられたエスペランティスト・笹谷良造

 先日、「宮武正道の「語学道楽」―趣味人と帝国日本 (特集 民族)」黒岩康博(『史林』94巻1号, 2011年)という論文を読み終わった。この論文では、マレー語の研究者であった宮武正道の生涯や関心の変遷を旧蔵資料や著作を分析することで詳細に検討している。この論文によると、宮武は当時知識人の間で流行していた世界共通語であるエスペラントに関心を持っており、奈良エスペラント会の創設メンバーのひとりになるほど熱心であったようだ。宮武の活動自体も地域のエスペラントの活動の一例として興味深いが、論文の中では、奈良エスペラント会に参加している人物のひとりとして「郡山中学教員笹谷良造」があげられている。(注1)

 笹谷良造は奈良県の民俗学研究者として知られており、『日本民俗学体系11』(平凡社, 1958年)の地域別研究の動向の紹介で奈良県のことを執筆している。笹谷は柳田国男と深い交流があったようで『近畿民俗』38号(近畿民俗学会, 1962年)の柳田追悼特集に「先生から頂いた悔み状」を投稿している。この文章によると、笹谷が柳田に初めて会ったのは、古本屋で購入した柳田の編集していた雑誌『郷土研究』の中で一の二が欠けていたため、それをいただけないかと依頼するために柳田の家を訪問した時であったという。その後も笹谷は上京時や柳田が奈良を訪問した際に何回もあったいたようだ。笹谷は、自分の母が亡くなった際に柳田からお悔み状をもらったことを特に印象に残っている思い出としてあげている。

 柳田が一時期エスペラントに大きな関心を持っていたことは知られており、柳田の周りにもエスペラントの関係者が多くいた。以下の論文では、民俗学の関係者の中にも佐々木喜善や比嘉春潮などエスペラントに関心を持っていた者たちがいたことが指摘されているが、笹谷のことは触れられていない。

冒頭に紹介した論文では、笹谷が奈良エスペラント会に「尼辻から郡山に引っ越した後一向に出て来なくなってしまった」と述べられているので、エスペラントに対する関心を早い段階で失ってしまったのだろうか。そうであれば、柳田は笹谷がエスペラントに関心を持っていたことを知らなかっただろう。

 最後になるが、エスペラントに関すること以外にも冒頭の論文には興味深い論点を多く含まれているので、この論文に関してはまた別の機会に取り上げてみたいと考えている。

(注1)「先生から頂いた悔み状」(『近畿民俗』38号(近畿民俗学会, 1962年))で引用されている柳田からの書簡の宛先に「奈良県郡山町矢田」とあるので、奈良エスペラント会に所属していた「笹谷良造」と民俗学研究者の「笹谷良造」は同一人物であろう。

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