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ラジオを使いこなす柳田国男―朝日新聞時代の社説から

 柳田国男は民俗学の普及のためラジオを積極的に利用していたことは知られており、『柳田国男全集 別巻1 年譜』を確認すると、東京だけでなく仙台中央放送局、長野放送局でも民俗学の講座を企画・開講していたことが分かる。柳田はラジオのどのような点を評価していたのだろうか。

 先日、柳田の朝日新聞社勤務時代に書かれた社説を読んでいた際に、ラジオに関して触れられている「文章対社会」(筆者注:もとの文章では「対」は旧字であるが改めた)という1927年1月7日の新聞に掲載された文章を見つけた。

 この文章は、文章改良の事業が中々進まないことに対する柳田の批判からはじまる。柳田によると、文章は明治以来簡単になっているものの、未だに日常の会話より文学の方に近く、演説も難解な漢字をそのまま使用しているため、聴いている人々はよく理解できないという。特に政治の領域では、この問題が未解決のまま残されていることが指摘されている。要するに、日本語の文章やはなしことばを簡単にして誰でも理解できるものにしなければならないという問題意識を柳田は持っていた。

 柳田はこの問題を解決するためにラジオに対して期待を持っていたようだ。このことが分かる文章を少し長いが引用してみよう。

ラジオはこの目的(筆者注:誰でも理解できる日本語を完成させること)に向かっては、誠に良い経験であった。政治演説の如く予期しうる聴衆に対し予期せられている問題を説くのとは違って、機会あり耳ある者は何人が出て聴くも自由である。しかもラジオにはふりがなも無く、字を問うことも絶対に不可能だから、少なくとも音声のみをもって理解し得る言葉を使い、それで聴く人を動かさねばならぬのである(後略)            (筆者注:一部現代仮名遣いや現在使用されている字に改めた)

 演説のように題目が決まっておらず、手元に参照する文章もないため人々は音声のみを頼りにして理解をしなくてはならない。そのためには日本語は人々が聴いて理解できるようなものでなくてはならず、改良を進める必要がある。柳田のラジオにかけていた期待は、ラジオが普及することによって人々が容易に理解できるような日本語になっていくというものであった。

 少し調べていると、「柳田国男における標準語の問題」という論文を見つけた。この論文によると、柳田には「国語教育とラジオ」という文章があるらしい。この文章でも柳田はラジオのことを国語の問題との関連で肯定的に捉えていたようだ。

 また、柳田はラジオを別の観点からも評価していた。昭和天皇が京都で即位の大礼を行うために京都に出発することに関して書いた「京都行幸の日」(注1)という文章から引用してみよう。

今回の御大典のもっとも悦ばしい特徴は、第一にはこれに参与する国民の数の、いづれの大御門の御時よりも、はるかに立勝っているということである。もとより交通と教育との力ではあるが、如何なる山の奥小島のかげに住む者でも、いやしくも普天の覆う限り、あるいは講和と文章により、あるいは新聞とラジオの報道によって、一人としてつとに即位礼大嘗祭の本旨を解して、これが天朝の国命を支配したまうべき根本の理法を、表現するものなることを知らぬ者はないのである。(後略)             (筆者注:一部現代仮名遣いや現在使用されている字に改めた)

 昭和天皇の即位の大礼や威光を日本列島の隅々まで伝えることに貢献したメディアのひとつにラジオがあげられている。柳田は天皇を中心とした国民の共同体を構想していたと思われるが、それを実現しやすくするための手段としてラジオというメディアが考えられていたのが興味深い。柳田はラジオの情報を伝播する力、それによる国民を統合にも自覚的だったと言えるだろう。

(注1)『定本 柳田国男集 別巻2』によると、この記事は1928年11月6日に朝日新聞に掲載される記事だが、「京都行幸の日」として柳田が書いた文章が新聞に掲載される際に修正が加えられて「御發輦」という記事で掲載されたという。この当時の朝日新聞の編集局長は緒方竹虎であったが、緒方が柳田に修正を依頼した。緒方が修正を加えた記事はほとんどなかったようで、この柳田の記事はその珍しい例であるようだ。

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