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水産業にも熱心だった農政学者・柳田国男

 本日は柳田国男の命日であるようなので、ひさしぶりに柳田に関する記事を投稿していきたい。柳田は、民俗学の研究者であると同時に農政官僚であり、農村の改革、農民の生活の向上に熱心であったことは比較的に知られているが、一時期水産政策にも熱心であったという事実はあまり知られていない。

 1931年に出版された『明治大正史世相篇』は、柳田や彼が構想していた民俗学に関して一般的に流通しているイメージ(民俗学=古い文化の探求、柳田の関心=農民中心など)を私たちの中でくつがえすのに、私が読んだ限りではもっとも適しているテキストのひとつである。このテキストには、柳田の水産業や漁村の生活の改善に対する関心がいくつかの章で述べられている。たとえば、第10章「生産と商業」の中の「漁民家業の不安」という節では以下のように書かれている。

農業があまりに政治の問題になり過ぎているに反して、水産はまたあまりにも少しばかりの人の手に、大きな問題が任せきりにしてあった。そうして今ちょうど農業の明治後期のような、隆盛時代に入って行こうとしているのである。(後略)
日本ではさしもに豊富であった沿海の富を漁(あさ)り尽くし、あるいは少しばかり海の人口の過多を感じなければならぬかと思うころに、徐々に勢力が対岸の半島に伸びていって、朝鮮海の出漁ということが自由になった。(中略)久しく北海道の漁場の不振を患(うれ)えていた人たちが、ただちにその旧経験を応用する機会に恵まれた。(中略)これ以上に好都合なものを望むことはできないのであった。
魚見の技能は漁運の半ば以上を支配し、これが修錬には大変な苦心を払ったものであったが、近ごろはすでに飛行機と無線電信とによって、いとも簡単に通報の任務を果たさせている地方もある。(中略)時勢と能力との二つの者が際会しなければ、ただ待っているだけではかくまでの生産飛躍はありえなかったろうと思う。(『明治大正史世相篇』新装版 講談社学術文庫より引用)

上記に引用した箇所は一例であるが、柳田が領海の拡大や技術の進展にともなう水産業に期待を持っていたことが伺える。『明治大正史世相篇』では、柳田は水産業への期待をかける一方で、経営を大企業に任せていることを課題にあげている。柳田が水産業に期待をしていた理由は、上記に引用した節で述べられており、水産物の多産によって「国民栄養の問題を、いとも簡単に解決してくれる」と考えていたからである。当時、日本列島内の人口過剰が問題なっており、食料不足を解決するための政策のひとつとして水産業の振興を柳田は考えていたのだろう。

 『明治大正史世相篇』と同時代の講演にも水産業への期待があらわれている。1924年に栃木県の宇都宮中学校で行われた柳田の講演「国を愛する者の学問」では、水産政策の重要性に関して以下のように述べられている。

さて世界において日本ぐらい生活の苦しい所はないだろう。(中略)供給すべき衣食の量がほとんど一定であるのに、その分配を受くべき人間の数は、三、四十年のうちに倍になっているのだから―それはむしろ当然の結果である。(中略)よく考えて見ると、まだまだわれわれ日本人の生活はいくらでも改める余地もあるし、その他にもわれわれが今まで気がつかなかった抜け道があるのである。(中略)その抜け道とは何か。すなわち、土地にあらずして洋々たる大海である。わが日本は周囲が海である。わが国民はこの海によって生活上の抜け道を得ることが出来る。たとえば漁業のごときはその一である。海は陸地に比して天産が豊富であるから―ことにわが国ではそうである―この漁業だけの改良進歩いかんによって、優に生活上の安定を得ることが出来ると信ずるのである。(後略)(『追憶の柳田國男 下野探訪の地を訪ねて』中山光一 随想舎より引用。筆者が重要であると考える部分を太字にした。)

この講演にも水産業に対する期待がわかりやすく表現されている。また、『柳田國男全集 別巻1』の年譜に以下のような記述が確認できる。

昭和7年(1932)
8月12日 伊豆大島で開かれた、水産講習会で講演するため大島に渡る。
8月13日 「日本漁村の構成」を講演する。

 これらのことから柳田が1930年前後に人口増加に対する食料政策の一環として水産業に大きな関心を持っていたことが言えるだろう。柳田は農政官僚であっため、柳田=農業への関心という印象が強いが、この時期は農業だけでなく水産業にも関心を持っていた。この関心が後年の海村の研究にもつながったのだろうか。

 水産業や海村への関心や研究は、渋沢敬三を中心としたアチック・ミューゼアムの仕事を中心に語られることが多いが、彼らと同時期に柳田も同じ関心を持っていたことは非常に興味深い。水産業や漁村への関心や研究はアチック・ミューゼアム独自の仕事ではなかったことが伺える。彼らの仕事と柳田の関心との間に影響関係はあったのか、影響関係がある場合は、どのような影響関係があったのかどうかは気になるところだ。

 また、柳田の海への関心は、伊良湖岬での椰子の実の発見から最晩年の『海上の道』に至るロマン主義的、詩人的な観点から語られることが多いが、経済政策的な観点から柳田の海への関心を捉えなおす必要があるかもしれない。

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