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6-3.撮せるものと撮せないもの

『動画で考える』6.他人を撮る

あなたの家族を繰り返し撮影し、その関係の変化を記録しよう。

あなたとあなたの家族との関係を思い返してみよう。かつては両親と同居していて、一緒に旅行したり、家族の誕生日をみんなで祝ったり、学校の行事には両親が応援に来てくれたり、そういった場には必ずビデオカメラがあって、撮影の担当は、あなただったり、あなたの父親だったり、あなたの兄弟だったりしたかも知れない。

あなたが、そういったホームムービーからもう一歩踏み込んで、もっと本格的に動画撮影に取り組み始めたときにも、もっとも身近な協力者はあなたの家族だったはずだ。あなたは、運動会やお誕生会や旅行の記録用に父親が購入したビデオカメラを常に持ち歩いて日常を記録する。食事中もたわいもない雑談をしている最中も、スマートフォンをかざしながらそれを観察している。それでも家族は、別段気にとめることも無く、それを許してくれるだろう。

その時にあなたは、あなたの家族との間に見えない境界線を引いている。例えあなた自身もあなたの家族もそれに気が付いていなくても、その境界線は徐々に強くなり、両者を明確に分け隔てていく。

その時あなたは「観察者」であり、あなたの家族は「観察される対象」となる。最初はそれに気が付かないかも知れないが、やがて家族はそれに違和感を感じ始め、以前よりは協力的ではなくなり、あからさまに不快感を表し始めるかもしれない。

あなたと家族の関係はその境界線をはさんですっかり変わってしまう。それでもあなたは強引にあなたの家族を撮影することはできる。家族との関係を気まずくしてまで、撮影するかどうかはあなたの判断次第だ。

あなたの家族が期待しているような場所以外で撮影する場合、お互いの感情もさまざまで、家族のイベントで誰もがその時間を楽しんでいる状態なら良くても、誰かが不機嫌だったり、悲しみをかかえて塞ぎ込んでいるときに、それを動画撮影することは難しいだろう。家族が動画撮影を許していたのは、家族の一員であるあなたに対してであって、「観察者」であるあなたに対してでは無いのだから。

あなたが撮影出来ないと思う場所や状況を調べてみよう。

ある日、あなたは父親が入院したことを告げられて、病院を訪れる。もしかしたらそうやって会って話をする機会は、それが最期かも知れない。父親を動画で記録して残す最期の機会でもあるだろう。

あなたはその時、父親を動画撮影できるだろうか?

あなたが動画撮影できないものとは、あなたに見えないものだ。すぐ目の前にあっても撮影する距離が限りなく遠くなってしまって、見えなくなってしまったもの、それは撮影しようがない。

あなたとあなたの家族との関係や立場が変わってしまって、眼の前に家族という実体があっても、あなたはそれを見ようとしなくなり、見えなくなってしまう。父親と面会しても、あなたが持っている父親というイメージが目の前に無いとき、あなたはそこに父親を見ようとはしない。そこに父親の実体があっても、あなたはそれを見ないという選択をしたのだ。それを動画撮影することは出来ない。

あなたは、驚くほどたくさんのものごとを見ていない。1日を通してさまざまな場所を通過して、さまざまな人とすれ違ったとしても、そのほとんどの瞬間は夢遊病者のように何も見ずにやり過ごしている。それを記憶もしていないし思い出すことも出来ない。あなたは見たいと思うものしか見ようとしないし、あなたの意識にあがってこないものは視野に入ってこない。

あなたが撮せるものと、他人が撮せるものの違いを確認しよう。

ビデオカメラはすべてのものを撮影する機能を持ちながら、あなたはそれを使ってすべてのものが撮影できるわけでは無い。あなたとあなたの友人とである場所を訪れて、同時に動画を撮影してみよう。2つの動画は、同じ時間・同じ場所を共有しているにもかかわらず、その視点・フレームは2通り存在する。2つの画面を別々に視聴すれば、それはほぼ似通ったものに見えるかもしれない。しかし並列してみれば、そこにはフレームで定義された明らかに異なる世界が存在する。

場所を切り出す微妙なサイズの違い、一箇所に視点を留める時間の長さの違い、手持ちのカメラが揺れるリズムの違い。その差異はかすかでささやかなものだが、一人で同時に2つのフレームを覗く体験は、あなたに新鮮な違和感をもたらすだろう。通常なら、あなたは自分のフレームの外にあるものを見ることが出来ない。あなたは自分の生活が、人生が、自分の所属する社会が設定したフレームを通してしかものごとを見ることが出来ないからだ。2つのフレームを並べてみて、初めてあなたは自分のフレームの外側にも別のフレームがあることに気がつかされる。

そして、あなたが今まで見ることが出来なかったものごとの存在に気がつく。自分の極めて身近な場所にあって、それに気がつかなかったこと、そしてあなたの友人にはそれが見えていたのだという驚き。それは、互いに動画を撮影して、共有してみることで初めて気付かされる発見だ。動画共有サイトに掲載されている動画の多くは、わたしには世界はこう見えています、という報告だ。誰も見たことのない現象や、誰も行ったことのない場所が写っていなくても、誰もが目にしているありふれた光景が、わたしにはこう見えてます、と報告するだけで、それは十分に驚異的なのだ。

だから、人と違った行動をとると興味を持ってもらえる、という当たり前のことを追い求めるのはやめて、もっと自分に見えている当たり前の世界を、当たり前のように報告し合おう。

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