見出し画像

11-2.ぼんやり考える

『動画で考える』11.動画で考える

動画の撮影は、ぼんやりと考えることに似ている。

何も考えずに、ただビデオカメラの録画ボタンを押して撮影を開始する。何を撮影しようかとか、撮影した動画をどうしようかとか、考えなくても動画の撮影は始められる。
ぼんやりと考えるという状態も、特にそこで具体的な課題に取り組むとか、それを解決したいといった明確な目的があってそうしているわけではない。

文章を書くときに、多くの場合はおおまかに、誰に向けて・何を言いたいのか、どのような書き方で・どのような事を伝えたいのか、そんな計画を立ててからかきはじめるだろう。そもそも頭の中で言語化できていないことを文章で表現することはできないし、自分の中でもやもやとして形になっていない思いを、言葉で伝えることは難しい。

動画は、考えていることや感じていることを言葉に置き換えずに、そのまま記録し伝達することができる。

街全体の光景を記録して、あとからその細部を検証してみよう。

よくある街中の光景を動画で撮影した場合、そこに写っているものをいちいちリストアップしたら、膨大な数になるだろう。路上を歩いている人びと、彼らの服装や表情、自転車や自動車・そのディテール、通りにあふれる看板やポスターやサインなど、それらが時間の経過と共に刻々と見え方を変え、あるものは移動していく。そればかりか太陽光や人工的な照明がそこにあるもの全てを照らしだし、色彩や影の落ち方が刻々と変化していく。

それをすべて言葉で表現しようとするのは無意味な行為だろう。動画を見る私たちは常にそのすべての細部を認知して、記憶に留めているのか?おそらく全体の印象をおおまかに把握し、特に特徴的な動きや要素だけを記憶にとどめているはずだ。だから「あそこに立っていた人物はどんな色のシャツを着ていましたか?」というように、任意の細部について問われても、それには答えられない。

全体をぼんやりと把握してその印象を自分の記憶にとどめる。意識してそうする場合も、無意識のうちにそうする場合もある。その時には気にもとめなかった光景が、あとから繰り返しそのイメージが蘇って頭を離れないという事がある。なぜ自分はそのイメージにとらわれているのか、その事が自分にとってどんな意味があるのか、なぜ忘れられないのか。自分で理解できないことは言語化できない。言語化できないことは、文章として書き残すことはできない。

しかしそれを動画で記録することはできる。そして後から繰り返し再生したり、他人と共有することができる。

あなたが目撃した出来事や、体験したことについて、うまく気持ちの整理がつかないことがあったときに、それを言語化して、自分で理解しようとしたり、友人に相談して同意を求めたり、記憶に留めておこうすることがあるだろう。そうすることで、自分自身も腑に落ちたり、友人と共有することで、それが自分の一方的な思い込みや勘違いでないことを確認し、気持ちが楽になることもあるかも知れない。

しかしそれは、言葉の上で納得しているに過ぎず、当然のことながら、あなたの体験そのものではない。もしその体験を動画で撮影していたとすれば、そこには言語化しきれなかった何物かが記録されていることもあるだろう。言語化して納得したつもりになっていたあなたは、動画を見直して、また混乱するかも知れない。そこで、言葉で友人に伝えたのと同じように、その動画を見てもらうことにする。

動画を見た友人はあなたがまったく気が付かなかった観点から何かを発見し、あなたに教えてくれるかも知れない。それはあなたが無意識のうちに見て見ぬふりをしていたものかも知れない。また、あなたは理解が及ばずに見えていなかったものが、その友人には理解ができて、強い印象持つかも知れない。あなたはすべてを見ているつもりでも、あなたの意識に上がってこないものは、見えていないも同然だ。しかしそれも、立場の違う別の人物には見えるかも知れない。

10年後に同じ動画を見直して、撮影時には気が付かなかったポイントを発見しよう。

あるいは、あなたが撮影した動画を10年後に見直してみよう。10年後のあなたには、撮影した時には見えなかったものが見えるようになっているかも知れない。それはあなたが経験を積んで、理解が深まったからかも知れないし、10年前にはあなたの目の前を遮っていたものが無くなったので、見えるようになったのかも知れない。

明確な目的意識を持って撮影しようとする動画は、必要なものはしっかり記録するが、必要無いものは排除することで、その目的を際立たせようとする。ある人物の体験談を撮影しようとする場合、その人物の語りや表情をしっかり記録するための構図を選んで、それ以外のノイズは極力排除しようとするだろう。

しかし撮影の場所が、その人物の自宅だったり、家族と同居している場合などは、関係がなさそうなものも、できる限り撮影しておく。「ぼんやり考える」のと同じように、とりとめも無く、先入観を持たずに手当たり次第に撮影する。そうやって記録された動画をあとから見直すと、本当にその人物の体験を生々しく伝えるものは、本人の言葉の中にではなく、そうした周辺のノイズの中にこそ見つかる可能性があるからだ。

(イラスト/鶴崎いづみ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?