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3-3.“もの”を撮る

『動画で考える』3.何もない、をうつす

身の回りの日常雑貨を改めて意識して観察してみよう。

あなたの日常生活と共にある、身の回りの“もの”たち。

コーヒーカップや様々な食品、化粧品やアクセサリーや衣類、本や雑誌、自然とたまったチラシやパンフレット。そのような細々とした雑多な“もの”を、普段は特に意識もせず気にも止めない。たいがいはテーブルの上や部屋の隅に無造作に置かれているだけだ。

中には毎日必ず手にして使用する“もの”もある。ヘアブラシやカップのような“もの”、お気に入りのベルトやスカーフ、椅子や机もそうだ。あなたの毎日はそのような無数の“もの”を使う事で成り立っているが、では、そういう“もの”をその都度しっかり意識して、いちいち確認した上で使っているかというと、そんなこともない。

毎日使っているバッグは、買ったばかりの頃は、デザインや材質や大きさや手に持ったときの軽さ・重さ、肩にかけたときの感触といったことまで、すごく意識して使っていたはずだ。お気に入りのシャツも帽子も靴もソファも、すべて最初は自分にとって大切なお気に入りで、いつまでも眺めていたり、手で表面を触ってみたり、向きを変えたり羽織ってみたり座ってみたり磨いてみたり・・・そんなふうに付き合っていたはずだ。

ところがそんな時期を過ぎると、そんなに親密だった“もの”とあなたとの関係は変わってくる。コーヒーカップはただコーヒーを飲むための道具となり、メガネは小さな文字を読んだり遠くにあるものを見るための補助具に過ぎなくなる。お気に入りのシャツも帽子も靴も、毎日の生活に欠かせない必需品ではあるけど、いちいちそれを、なぜ自分が気に入っているのか、その要因をその都度思い起こすこともなく、ただ機械的に手に取って身につけて使うだけとなる。

身の回りにある生活雑貨のほとんどを、あなたは意識もせずに使っているだけで、それらの機能を活用することで、便利で快適でさえあればそれで良いのだ。日常生活はそんな“もの”であふれている。だから、いちいちすべての“もの”の実在を意識して使ったり、そのことを立ち止まって深く考えたりしていたら、あなたの生活はかえって成り立たなくなるだろう。余計なことを考えなくても機能を果たしてくれることこそが、“もの”に求められる役割だ。

長い時間をかけてたっぷりと使い込んで、汚れたり破けたり故障してしまったりしたときに改めてその“もの”の実在について意識するぐらい、普段はすっかり忘れ去ってしまっている。

無意識に使っている身の回りの生活雑貨を撮影してみよう。

そんな、あなたの身の回りの、意識からすり抜けてしまった“もの”たちを、あえて動画で撮影してみよう。

例えば、机の上のコーヒーカップを撮影する。カメラとカップの距離はどうしようか、カップの向きはどうしようか、明るさは?背景は?音は?中に何か入っていたほうが良いのか?いろいろ考えながら、とにかく撮影を開始する。

“もの”を「動画」で撮影してどうするんだろう。だってそれはまったく動かずそこにあるだけなのだから。それを一枚の写真に撮ったって同じ事なんじゃないのか。いろいろ考えるうちに撮影時間は2分、3分と過ぎていく。

このカップは、以前旅行に行ったときに友人のためにおみやげとして買ってきて、自分で使っている。どうしてそうなったのかは忘れてしまった。陶器の表面に紺一色の彩色がしてあって、表面は八角形に削られている。持ち手が太く丸みを帯びているのが持ちやすくて気に入っている。よく見ると持ち手の下の方が少し欠けている。毎日コーヒーを飲むのに使っているから、内側には少しカフェインの汚れが残っている。

窓際の机に置いてあるので、日光が差し込んでカップの表面は少しずつ色が変化しているようにも見える。紺から深緑に、黄緑色から明るいオレンジに輝いて見える瞬間もある。少し開けてある窓から入ってくる風にあおられてカーテンが揺れて、カップに軽く触れそうになる。そこであなたはビデオカメラの録画停止ボタンを押す。

“もの”の機能をいったん忘れて、”もの”そのものを観察してみよう。

身の回りにある“もの”を動画で撮影すること、それは普段、あまりにも身近にあって生活に入り込んでしまった“もの”を、改めて意識する時間を持つことだ。一定の時間をかけて動画撮影をすることで、観察し考える時間を作る。それは普段はなかなか作り出すことができない時間、忙しい生活の中では無駄とさえ思える時間だ。自分をそういう場所に置いて、ビデオカメラを介して“もの”と向かい合う。

時間をかけて向かい合うことで、目の前の“もの”から「機能」がはぎ取られて、単なる“もの”としての表情が見えてくる。それは空間の中で大きさや質量を持ってそこに置かれている“もの”だ。だから周囲の環境から影響を受けたり、逆に影響を与えたりする。

コーヒーカップの持ち手の丸みや表面の質感、全体の形と背景との関係、色や光線、テーブルの上に落ちた影・その移動など。それぞれの要素がバラバラになったり、普段使っているときとは違った組み合わさり方で見えてくる。いままでそんなふうに見たこともないような“もの”がそこに見えてくる。

身の回りの“もの”たちを、一つ一つじっくりと、ビデオカメラを使って観察してみよう。あるときはバラバラに、あるときは集合で、無造作に置かれたままの状態を分析してみよう。そこには「“もの”の世界」とでもいうべきものが存在している。

(写真/鶴崎いづみ)

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